戦国時代、男性だけでなく女性も活躍していたことは、大河ドラマの主人公にもなった井伊直虎(いい なおとら。次郎法師)はじめ、広く知られるようになってきました。
しかし、戦場で武勇を奮った女傑や、御家のピンチを切り抜けるべくリーダーシップを発揮した女城主&女当主は数多くいたものの、広大な領地を支配する大名ともなるとさすがに多くはないようです。
今回はそんな女大名の一人として伝わる池田せん(いけだ -)のエピソードを紹介したいと思います。
若くして夫を喪い、再婚するも……
池田せんは織田信長(おだ のぶなが)の乳兄弟・池田恒興(いけだ つねおき)の娘として誕生、同じく織田家臣の森長可(もり ながよし)に嫁ぎます。
生年は不明ながら、父・恒興が天文5年(1536年)生まれ、夫・長可が永禄元年(1558年)生まれであることから考えて、夫と概ね同年代(0~-5歳?)の生まれと考えていいでしょう。
長可は元亀元年(1570年)に父・森可成(よしなり)と兄・森可隆(よしたか)を喪ったことによってわずか13歳で家督を継ぎ、他の重臣たちと肩を並べて活躍していた織田家のホープ。
せんとはいつ結婚したのか明らかではありませんが、夫婦の仲は睦まじかったようで嫡男の森玄蕃(げんば。天正6・1578年生)、娘のおこうを授かっています。
しかし、長可は天正12年(1584年)4月9日、小牧・長久手の戦いで徳川家康(とくがわ いえやす)の軍勢を前に、27歳という若さで恒興ともども討死してしまいました。
「……殿!」
悲嘆にくれるせんでしたが、夫や父の死を悲しんでばかりもいられません。幼い子供たちを抱えてとにかく食っていかねばなりませんから、周囲の勧めもあってせんは中村一氏(なかむら かずうじ)と再婚します。
天正18年(1590年)には嫡男・中村一忠(かずただ。後に忠一)を生み、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦では11歳で初陣。戦功によって伯耆国(現:鳥取県西部)17万5,000石の大名となりました。
その一方で夫の一氏は合戦を前に病死しており、せんは再婚することなく出家。安御院(あんぎょいん)と称して一忠の庇護下で隠居します。
しかし、恃みの一忠は慶長14年(1609年)に20歳という若さで急死してしまい、跡継ぎがいないため徳川幕府によって改易(所領を没収)、御家とり潰しとなってしまったのでした。
城を枕に討死覚悟!?200名の女鉄砲隊を率いる
さぁ、大変です。このままでは一族郎党が路頭に迷ってしまいます。
「……が、ご公儀の命令とあれば、致し方ありますまい。ささ、尼御台様も速やかに退去の御仕度を……」
家臣たちはすっかり諦めモードでいそいそと荷造りをする者、早くも次の仕官先を求めて伝手を探し回る者など、もはや中村家に対する忠義など忘れ去ってしまったようです。
「何か手がないものか……どうすればよいものか……」
男たちはどいつもこいつも頼りにならない……考えあぐねたせんは、まだ城内に残っていた侍女たち200名を搔き集め、その全員に鉄砲を持たせました。
「尼御台様、一体これは?」
「知れたこと。ご公儀に対して一戦交え……はせぬが、事と次第によってはその可能性もあることをほのめかすのじゃ」
「要するに、交渉のハッタリにございますね」
「身も蓋もないが、そういう事じゃ……せめて我らが糊口をしのぐ堪忍分(かんにんぶん)だけでも勝ち取りたい。どうせ死ぬなら、すごすごと所領を追われて野垂れ死ぬより、城を枕に討死した方が、武家の女子(おなご)として面目も立とう」
「しかし、鉄砲は重うございますな。わたくしどもは初めて持ちますが、扱い方はもちろんのこと、支えることさえままなりませぬ」
「解っておる。わたくしは鉄砲の心得があるゆえ、そなたたちの中から力のある者を選び出し、急ぎ撃ち方を教えよう。ご公儀の使者が来るまでに、数名でも撃つことが出来れば、相手は『全員が鉄砲を撃てる』ものと勘違いしてくれようぞ」
「そう首尾よく参ればようございますが……」
さて、そうこうしている内に城と所領の引き渡しを求める幕府の使者がやって来ました。
「……これは一体……?」
ずらりと居並ぶ侍女たちはいずれも鉄砲を携え、城内のあちこちでは散発的に銃声が鳴り響く様子に、使者たちも不気味さを覚えずにはいられません。
「お騒がせ致しております……ただいま、ご公儀に引き渡す鉄砲に故障がないか、試し撃ちをさせていただいております。いえ決して、城に立て籠もって将軍家へ謀叛いたそうなどとは……」
このわざとらしい「脅し」に胆を冷やしたのか、あるいは苦笑いしたのか定かではない(恐らく後者であろう)ものの、使者は急ぎ引き返してこの様子を報告しました。
「……女子ながら大それた度胸じゃ。よかろう、尼御台に堪忍分として一万石を与えよ」
さすがの家康も苦笑してせんに一万石を与え、無事に城は明け渡されたのでした。
ちなみに、その一万石がどこかはよくわからず、おそらく一万石分の収入を保障する(が、実際の領地は与えない)蔵米知行制だったのでしょう。
せんとしても食い扶持さえ確保できれば良く、別にどこかの領地を治めたかった訳でもなかったでしょうから、これでWin-Winとなったのでした。
エピローグ
以上が『当代記(とうだいき)』を基にした池田せんの生涯(※)ですが、女鉄砲隊を率いて一万石の堪忍分を勝ち取り、名ばかりとは言え女大名となったエピソードは、なかなかに痛快なものです。
(※)文献では、せんが「女鉄砲隊を率い、一万石を領した」ことのみ書かれています。
ところで、後継ぎがおらず改易されてしまった中村家ですが、実は一忠に隠し子?中村一清(かずきよ)がおり、せんの姪孫(てっそん。弟・池田輝政の孫)に当たる池田知利(いけだ ともとし)の伝手で鳥取藩に仕え、明治維新まで存続したと言います。
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