戦国時代

戦国時代の怨霊伝説!権力争いに巻き込まれて18歳で惨殺された菊姫の悲劇

下剋上の嵐が吹き荒び、血で血を洗た戦国時代。渦巻く野望の犠牲となったのは、決して男性だけ、武士だけではありませんでした。

今回は宗像大社(福岡県宗像市)の大宮司家・宗像(むなかた)氏の後継者争いに巻き込まれてしまった菊(きく)姫のエピソードを紹介したいと思います。

政略結婚と束の間の安息

菊姫は天文4年(1535年)、宗像正氏(むなかた まさうじ)と、正室である山田局(やまだのつぼね)の一人娘として誕生しました。

当時、宗像氏は周防国(現:山口県東部)を中心として、中国地方西部と九州北東部に大勢力を築いていた大内(おおうち)氏に従うことで勢力基盤を維持できていた状態で、正氏自身もしばしば大内氏のため各地を転戦していました。

西国に一大政権を築き上げた大内義隆。Wikipediaより。

「その方の忠勤ぶり、なかなかに殊勝である。我が右腕たる五郎(大内家の重臣・陶隆房)と縁を深め、共に大内家を支えて欲しい」

「ははあ……」

正氏は陶隆房(すえ たかふさ)の姪・照葉(てるは)姫を側室に迎え、天文14年(1545年)には鍋寿丸(なべじゅまる。後に宗像氏貞)、同じく16年(1547年)には色姫(いろひめ)を授かります。

「でかした……待望の男児じゃ!」

庶子とは言っても男児には変わりなく、主君・大内家の重臣である陶隆房の後ろ盾もありますから、これで宗像家も安泰……なのですが、正室である山田局は女児(菊姫)しか生んでいないため立場がなく(※)、次第に家中の権力を失っていくことになります。
(※)現代では考えられない(あるまじき)価値観ですが、当時は「男児を生む」ことが女性の至上命題とされていました。

「母上……」

母の立場を案じていた菊姫は、14歳となった天文17年(1548年)、従弟(※一説には叔父)の宗像氏男(うじお。氏雄)を婿に迎えます。氏男は永正19年(1512年)生まれの37歳、親子ほども年齢の離れた典型的な政略結婚です。

「それでも人には添うて見よ」せめて円満なれかしと願うばかり(イメージ)。

天文20年(1551年)3月4日に正氏が亡くなると、宗像大宮司家は氏男が継承することになり、菊姫と山田局は大宮司の正室と姑として一定の立場を確保できたのですが、その安心も束の間に過ぎませんでした。

どちらにつくか?運命を左右した決断

天文20年(1551年)8月28日~9月1日に主君・大内義隆(おおうち よしたか)が陶隆房の謀叛によって謀殺される(大寧寺の変)と、あろうことか夫・氏男は殉死(後追い自殺。一説には討死)してしまいます。

17歳になっていた菊姫との間には子供がいなかったため、宗像大宮司家に後継者争いが勃発するのです。

現時点における宗像大宮司家の後継者候補は、以下の2名。

一、宗像千代松(ちよまつ。氏男の弟)
支援者:宗像氏続(菊姫の舅)ら

一、宗像鍋寿丸(なべじゅまる。正氏の庶子で菊姫の異母弟)
支援者:照葉姫(菊姫の義母。陶隆房の姪)ら

菊姫を取り巻く人々。千代松(大内派)と鍋寿丸(陶派)のどちらにつくか。

亡き夫の弟か、腹違いの弟か……菊姫と山田局は、微妙な距離感の両勢力から板挟みとなってしまいます。

「……これは宗像家が、今後も大内に従い続けるか、陶に鞍替えするかの決断となろうぞ」

今は陶に勢いがあろうと、謀叛はいつまでも続かない……程なく鎮圧されるだろうと読んで千代松への支援を決断したのですが、これが二人の運命を決定づけるのでした。

「……よし、抜かるなよ」

明けて天文21年(1552年)3月23日、陶隆房の命を受けた石松又兵衛尚季(いしまつ またべゑなおすえ)は手勢を率いて菊姫と山田局らを闇討ち。

惨殺された菊姫(イメージ)。

野中勘解由(のなか かげゆ)、嶺玄蕃(みね げんば)と共に屋敷へ乗り込み、菊姫親娘に仕えていた女房4名(小少将、小夜、花尾、三日月)ともども惨殺し、6名の遺骸は屋敷の裏手に埋められました。

果たして宗像大宮司家の後継者争いは鍋寿丸が制するところとなり、敗れ去った千代松と氏続は豊前国(現:福岡と大分の県境一帯)まで逃げたところで血祭りに上げられたということです。

エピローグ

めでたく宗像大宮司家を継いで宗像氏貞(うじさだ)と改名した鍋寿丸でしたが、その家中には次々と異変が起こりました。

菊姫たちの惨殺に関与した者たちや、その近親者が次々と不審死を遂げたり、原因不明の病に侵されたりなど異変が相次ぎ、誰ともなく怨霊の存在を噂するようになったのです。

「えぇい、我らは畏(かしこ)くも宗像三神をお祀りする大宮司家ぞ!怨霊などを恐れて何とするか!」

強がって噂を否定する氏貞でしたが、怨霊の極めつけは永禄2年(1559年。一説に永禄7・1564年)、妹の色姫が母の照葉と双六遊びに興じていた際、突如として「我は宗像大宮司・正氏が妻なり」と叫んで髪を振り乱し、母の喉笛に嚙みついたのです。

「よくも娘を殺し、大宮司家を乗っ取りおったな!」

「すわっ、姫様がご乱心ぞ!誰か、誰か御母堂様をお助け申せ……!」

近くにいた家臣たちが総出で色姫を引き離したものの、彼女(にとり憑いた怨霊)の怒りは収まらず、氏貞が慰霊の大法要を催したものの、祟りは後々まで尾を引いたということです。

どんな供養にも怒り収まらず、祟り続けた菊姫らの怨霊(イメージ)。

氏貞……天正14年(1586年)3月3日、病死
照葉……事件からほどなく病死
色姫……天正12年(1584年)3月24日、嫁ぎ先と実家の争いを苦に自害
塩寿丸(しおじゅまる。氏貞の嫡男)……夭折

塩寿丸に先立たれたため、氏貞の死をもって宗像本家は断絶してしまったのでした。それでもまだ気が晴れないようで、ウソかマコトか、菊姫たちを惨殺した石松・野中・嶺一族の子孫は今でも祟られ続けているとも言われています。

※参考文献:
吉永正春『九州戦国の女たち』海鳥社、2010年12月

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