朝倉義景とは
戦国三英傑の一人で、「魔王・覇王」とまで呼ばれた織田信長を、何度も追い詰めた戦国大名がいた。
その名は朝倉義景(あさくらよしかげ)、越前国の戦国大名で名門・朝倉氏の第11代当主である。
天正2年(1574年)1月1日、「天下布武」を掲げる信長が新年を祝う宴の席を開いた。
その場で披露されたものに信長の家臣たちは息を飲んだ。
信長の前には金箔を貼られた三つの髑髏(どくろ)があり、それは信長が討ち取った北近江の浅井長政とその父・浅井久政、もう一つは信長を何度も追い詰めた朝倉義景のものであった。
※「信長はこの髑髏を杯にして酒を飲ませた」という話があるが、これは創作の可能性が高い。
しかし運命の歯車が少しでも狂えば、髑髏となっていたのは信長の方だったのかもしれない。
実は信長は朝倉義景によって何度も窮地に立たされ「もう二度と天下は狙いません」という約束までさせられていた。
今回は、信長を最も追い詰めた戦国大名・朝倉義景について3回にわたって解説する。
出自
朝倉義景は越前国(現在の福井県)の戦国大名で、第10代当主・朝倉孝景の長男として天文2年(1533年)に生まれた。
義景が生まれた時、実父の孝景は41歳で義景が唯一の実子であったとされ、幼名は「長夜叉」であるが、16歳で父の死去により家督を相続し、第11代の当主となり「延景」と名乗る。
天文21年(1552年)に足利幕府第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ「義景」と改名する。ここでは「義景」と記させていただく。
若くして家督を相続した義景の補佐として、従曾祖父の朝倉宗滴が政務や軍事を行っていた。
弘治元年(1555年)に宗滴が死去、宗滴の死は若い義景にとって試練の時であった。
老将・宗滴は政治的・軍事的にもカリスマ性を発揮していたことから、義景が自ら政務を執るようになると家中の統率が乱れる恐れがあった。
朝倉氏は、朝倉一族を中心とした重臣たちの合議制で国を治めていたからである。
父・孝景は室町幕府の御供衆・相番衆に列して地位を高め、義景の正室には管領・細川晴元の娘を迎えたことで、朝倉家は室町幕府と親密な関係を構築していた。
衰退していた幕府は、朝倉氏を守旧的大名として優遇しており、将軍・義輝とも義景は交流を深めていた。
義景の本拠地である一乗谷は「北の小京都」と呼ばれるほど繁栄しており、京都・堺に次ぐ人口があった。
さらに義景は文化と教養と財力があり、越前朝倉氏は天下を狙えるほどの戦国大名になっていたのである。
好機を逃す
永禄8年(1565年)5月、三好三人衆らが将軍・義輝を殺害する「永禄の変」が起きる。
将軍・義輝の重臣であった者ら(細川藤孝ら)は、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を幽閉先の奈良から脱出させ近江国に移すことになったが、この背景には義景の画策があったとされる。
義景は細川藤孝らと頻繁に連絡を取り合っていたようである。
義景は義昭を越前で厚く庇護した。そして還俗した義昭は義景を頼り、三好三人衆を倒すべく上洛戦を求めた。
これは朝倉氏が天下を取る千載一遇の好機だったが、義景は動かずにいた。
義景は一向一揆らと交戦中であり、長期間留守にすることが出来なかったのである。
また、京都では三好氏の勢力が根を張り、朝倉氏の協力者であった若狭の武田氏が滅亡し、三好らに対してまだ不利な状況であった。
そんな時、永禄11年(1568年)6月、義景が寵愛していた嫡男・阿君丸が急死してしまう。
義景は悲しみに暮れてしまい、精神的にも義昭の望む上洛戦に出られるような状態ではなくなった。
また、一説には義景は越前国(一乗谷)に京都を再現しようとしたのではないかとも言われている。
わざわざ兵を率いて焼け野原になった京都に向かわずとも、当面は次期将軍候補である義昭を保護しておけば、その威光で一向一揆とも和睦が出来たのである。
つまり義昭は「時期を見てから上洛しても間に合うのではないか?」と考えていた可能性もある。
しかし義昭にとって上洛することは悲願であった。
そこで義昭は義景を見限り、この年の7月に美濃国を支配下に置き勢いにのっていた織田信長を頼って上洛しようとしたのである。
義景は再三に渡って「考え直してください」と慰留したが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して越前から去ってしまった。
そしてこれは「天下布武」を掲げて上洛の機会を狙っていた信長にとっては、まさに「渡りに船」のタイミングであった。
信長と対立
永禄11年(1568年)9月、信長は約6万の兵を率いて義昭を奉じて上洛した。
上洛した信長は三好勢を京都から追い出し、義昭を第15代の将軍とし、全国の諸大名に対して上洛をして義昭の臣下になるように求めた。
信長は義昭の命令として2度に渡って義景に上洛を命じるが、義景はこれを拒否した。
また、上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安もあり、拒否したという。
義景の上洛拒否を許せば将軍の権威に傷がつき、信長自身の天下取りへの障壁となることから、信長は永禄13年(1570年)4月、同盟を結んでいた徳川家康との連合軍で朝倉討伐に出陣した。
朝倉方の支城である天筒山城と金ヶ崎城は、織田軍の攻撃により落城。
義景の居城・一乗谷にも危機が迫ったが、義景は動じるどころか「信長め!目にもの見せてやる」と、好機と見た。
義景には勝算があった。それは北近江の浅井長政という援軍がいたからである。
金ヶ崎の退き口
北近江の浅井長政は信長の妹・お市の方と婚姻し、織田と浅井の間には同盟が出来ていた。
しかし、同盟の約束の中には浅井氏が昔から良好な関係を保っている朝倉氏を攻めないという約束があったにも関わらず、信長は約束を守らずに朝倉氏を攻めたのである。
浅井長政は思い悩むが、父の久政らが朝倉との同盟関係を重視し、朝倉と浅井は密約を結んで信長軍を挟み撃ちにしようと動き出した。
こうして浅井長政は朝倉の援軍として出陣し、さすがの信長も挟み撃ちには命の危険を感じ取り、少ない人数で命からがら京都に逃げ帰ったのである。
京都に戻った時、信長のお付きの人数はわずか10名ほどであったという。これが世にいう「金ヶ崎の退き口」である。
この時、殿(しんがり)を努めたのが明智光秀や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)であり、義景は信長をあと一歩の所まで追い詰めたが、信長の多くの有力武将らを取り逃がしてしまった。
このことがその後の運命を左右することになるのである。
朝倉義景 ~「信長を苦しませ頭を下げさせた 姉川の戦いと志賀の陣」②
>名門である朝倉家が、家来筋にあたる織田家に従うことを嫌ったからである
斯波家の有力な被官同士であるのに織田氏が朝倉氏の家来筋にあたることはないと思います。
斯波家の家臣では甲斐氏に次ぐ地位にあったのが織田氏です。
織田家が義満の時代に尾張守護代になっているのに対し、朝倉家は応仁の乱以降に勃興した家ではないでしょうか。
ご指摘ありがとうございます。
かつて朝倉氏は守護代甲斐氏や織田氏とともに斯波氏の3家老として仕えていたようですね。
該当箇所は削除させていただきました。
こちらのコメントをもって補足とさせていただきます。
ありがとうございましたm(_ _)m
越前には、織田家のゆかりの剣神社があります。神社のある地名も織田町(オタ)。
明智光秀は、一時期、美濃から越前に逃れており、朝倉家にお世話になっていたようです。
不思議な関係ですね。