古来「親の因果が子に報い」などとはよく言ったもの。
良くも悪くも親の行為は子供に影響を及ぼすことが少なくありません。
今回は戦国時代、徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えた松平一族の一人・松平康安(まつだいら やすやす/みちやす)を紹介。
果たして彼の親たちは、康安の人生にどんな影響を及ぼしたのでしょうか。
名前の読み方について
松平康安は弘治元年(1555年)、大草松平家の第6代当主である松平正親(まさちか)の子として誕生しました。
通称は善四郎(ぜんしろう)。後に官途(かんど。官職の自称許可)でも受けたのか、善兵衛(ぜんべゑ)とも呼ばれ、どちらも祖父・松平三光(みつみつ/みつあき。源太郎)の代から受け継いでいるものです。
ところで、この康安という名前の読みですが、康も安もどちらも「やす」と読めます。
だから「やすやす」ではないかとされているようですが、それでは人の名前としてあまりに不自然というもの。
※ただし「やすやす」の読みは『寛政重修諸家譜』巻第二十六に出典あり。以下、康安の事績については『寛政重修諸家譜』より。
そこで人名漢字の読み方を調べたところ、康は「みち」安は「さだ」とも読めるようです。
なので康安は「みちやす」か「やすさだ」、あるいは「みちさだ」と読めます。
康の字は元服に際して主君の家康から偏諱を受けたものと仮定(多分そうでしょう)、読みを同じく「やす」とすると、安の字は自然と「さだ」に。
となれば康安は「やすさだ」と読むことになるものの、感覚的には「みちやす」の方がしっくりきます。
康安は後に出家して法名を道白(どうはく)としており、これは康を「みち」と読んでいたことのヒントになるかも知れません。
そこで、ここでは仮に康安の名前を「みちやす」と読んでいます。
その論拠については今後の研究が俟たれるものの、少なくとも「やすやす」よりはいいんじゃないでしょうか。
人生マイナスからのスタート、初陣の負け戦にもめげず武勲を重ねる
さて、本題に戻りまして。松平康安の幼少期は決して順風満帆とは言えませんでした。
康安が6歳となった永禄3年(1560年)、父の正親が織田信長(おだ のぶなが)との戦いで討死。
続く永禄6年(1563年)には曾祖父の松平七郎昌久(しちろうまさひさ)が一向一揆に加勢。家康に叛旗をひるがえしたため、改易(所領没収)処分となってしまいます。
ゼロどころか謀叛人の子孫としてマイナスからのスタートですが、家康の厚情によってその嫡男・松平信康(のぶやす)に仕えました。
康安が18歳となった元亀3年(1572年)、武田信玄(たけだ しんげん)が徳川領であった遠江国(現:静岡県西部)へ侵攻。康安らは攻撃を受けた二俣城(現:浜松市)の救援に向かい、これが初陣となります。
ここでは奮戦虚しく落城。主将の中根正照(なかね まさてる)、副将の青木貞治(あおき さだはる)らと共に浜松へ退却しました。
初戦からケチがついてしまった康安ですが、その後も三方ヶ原や長篠など、相次ぐ対武田戦に身を投じて奮闘します。
(中根正照、青木貞治の両将は二俣城の雪辱を果たすべく、三方ヶ原で討死しました)
それらの戦いにおける武勇伝の一部を紹介しましょう。
「康安ひとり石のかげより、あまたゝび銕炮を放ち、其のち引て歸る。このとき康安十八歳、初陣なり(二俣城の戦い)」
「康安すゝむで鎗をあはせ、五箇所の創をかうふる(三方ヶ原合戦)」
「康安先手にすゝみ、甲首一級をうち取て実験に備へ、山田平一郎正勝がくれて首をとり来るを見て、日頃の大言にも似ず、なぞをそかりしといふ。正勝いつはりて、我汝よりさきにえたる首とく実験に備へたり。これは二たびぞとこたふ。康安きゝもあへず、我汝にまくべきやといひざま、乗出して敵陣にはせいり、また首とりて来りければ、東照宮御感あり(長篠合戦)」
「康安ひそかに陣屋の上にのぼり、敵の集ひたる所を見下して、銕炮を続けざまに放ちければ、敵驚きてひき退く。康安、成瀬吉平久次と力を合せ逃る敵ををひ城に追入、透を見て先登せむとせしかども、敵の銕炮にあたりければ引て返る(田中城の戦い)」
「康安山田正勝とともに足軽となりて先をかけければ、武田がた朝比奈彦右衛門眞直これを見て、歩卒をうたせじとひきまとゐ山にそひて退く。眞直はきこふる勇士にして而も駿馬に乗りしかば、正勝と相はかり、正勝前をさへぎり、康安うしろよりかゝりて眞直が指物をきりおとす。然れども馬つよく主剛なるゆへ、遂にのがれさる(遠目の合戦)」
「高天神の城ぜめに先登し、横田甚右衛門尹松が守る櫓の下にしてたゝかひしに、敵あへて當るものなし(高天神城の戦い)」
※『寛政重修諸家譜』巻第二十六より
……などなど。天正7年(1579年)に信康が切腹してからは家康に仕え、武田家の滅亡後も小牧・長久手や小田原征伐、関ヶ原に大坂の陣など歴戦に武功を重ねます。
「蟹江の城ぜめに先登し、城門の橋のうへにて谷崎忠右衛門某と鎗をあはす。ときに康安銕炮にあたり、かけひき自由ならずして相びきにしりぞく(蟹江城の戦い)
「東照宮康安を御前にめされ、銕炮十挺ばかり出し給ひ、心にかなひたるを一挺賜はらんとのたまふ。康安おほせに従ひその中の一挺を選び、この筒をたまはらんと申す。東照宮これ国友が製造せしものなり、汝新しきをとらずして古きをえんといふは、其わざに熟せる故なりとのたまふ(小田原城の戦い)」
※『寛政重修諸家譜』巻第二十六より
先登(せんど)とは先駆け、すなわち一番乗りのこと。敵中に真っ先かけて突入する勇気は、武士にとって何よりの誇りでした。
家康・秀忠の引っ張りだこに
慶長年間に入ると、家康は後継者の徳川秀忠(ひでただ。台徳院)に家臣を分け与える(≒お目付け役をつける)ことにしました。
家康「特に欲しい者はいるか」
秀忠「ならば、善兵衛(康安)を……」
一応希望を聞いてはみたものの、康安を手放したくなかった家康は「一度本人に聞いてみよう」と時間稼ぎ。
家康「善兵衛。そなたは江戸に留まる(=秀忠に仕える)か、上洛する(=自分に仕え続けたい)か」
家康と秀忠、今や天下人ツートップに両袖を引っ張られる羨ましい状態に。しかし康安は謹んで答えます。
「いずれを主君にするか選ぶなど不遜なこと、それがしには致しかねます。どうか上様の思し召し通りに」
内心ホッとしたであろう家康は、自分の手元に康安を残すことに決定しました。しかし秀忠はこれが気に入らず、3年ほど康安を無視するという仕返しをしたとか。
「台徳院殿はなはだ御不興にて、三とせがほどは康安に御言葉をもかけさせ給ざりしが、のちのちはまたもとのごとくにめしつかはせたまひける」
※『寛政重修諸家譜』巻第二十六より
ちょっと大人げないですが、家康の死後は秀忠に仕えて3,000石を加増、6,000石の好待遇を得ます。よほど獲得したい人材だったのでしょう。
「……昔話でもしてくれ。そうさな、亡き父上が戦われた武田との話なぞ……」
秀忠の要望によって康安ほか近藤石見守秀用(こんどう いわみのかみひでもち)、渡辺山城守茂(わたなべ やましろのかみしげる)、眞田隠岐守信昌(さなだ おきのかみのぶまさ)、横田甚右衛門尹松(よこた じんゑもんただとし)、初鹿野傳右衛門昌久(はじかの でんゑもんまさひさ)などが招集されました。
かつて敵味方に分かれて戦った同士(眞田以下3名は武田の旧臣)が当時のことを話し合ったと言います。
尹松「いやぁ、それがしの守備していた櫓の下で善兵衛(康安)殿が大暴れしていた時は、鬼神が乗り移ったかのようにござったなぁ……」
康安「何の何の、甚右衛門殿の用兵はさながら常山の蛇、かなりの苦戦を強いられたものじゃ……」
世の中、他人の自慢話ほど聞いていてつまらぬものはありません。しかし数々の修羅場をくぐり抜けてきた実体験に基づく話は、しばしば秀忠を感動させたとか。
その後、元和8年(1622年)に駿府城の定番(じょうばん)を任された康安は、翌年5月2日に当地で亡くなりました。享年69歳。
終わりに
【松平康安の生涯・略年表】
弘治元年(1555年) 誕生
永禄3年(1560年) 父・松平正親が討死
永禄6年(1563年) 曾祖父・松平昌久が一向一揆に寝返り、改易。その後、松平信康に仕える(時期は不明)
元亀3年(1572~1573年) 10月 二俣城の戦い/12月 三方ヶ原の戦い
天正3年(1575年) 5月 長篠の戦い/7月 諏訪原の戦い/8月 小山の戦い
天正7年(1579年) 9月15日 信康が切腹、徳川家康に仕える/月不明 田中城の戦い
天正8年(1580年) 8月 遠目の戦い
天正9年(1581年) 3月 高天神城の戦い
天正12年(1584年) 4月 小牧山の戦い/6月 蟹江城の戦い
天正18年(1590年) 2~7月 小田原征伐
慶長5年(1600年) 9月 関ヶ原の戦い
慶長6年(1601年) 5月11日 従五位下石見守に叙任
慶長19年(1614年) 11月 大阪冬の陣
慶長20年(1615年) 5月 大阪夏の陣
元和2年(1616年) 4月17日 家康死去、秀忠に仕える
元和8年(1622年) 10月14日 駿府城の定番に任じられる
元和9年(1623年) 5月2日 死去。享年69歳
以上、松平康安の生涯を駆け足でたどってきました。
ゼロどころかマイナスからのスタート、そして初陣の負け戦にもめげることなくここまで駆け抜けた姿は、家康ならずとも応援したくなったことでしょう。
康安には松平正朝(まさとも。善兵衛)・松平重成(しげなり。文四郎)・松平成次(なりつぐ。忠太郎)・松平康信(やすのぶ。久七郎)・女子(実名不詳、本郷勝右衛門勝吉の妻)らの子供がおり、それぞれ徳川幕府で活躍しました。
子供たちにとって父の遺勲は誇りであり、また生きていく上で大いにプラスとなったことでしょう。
親の因果が子に報い……康安の活躍により、マイナスからプラスに転じることができたようです。
※参考文献:
- 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第一輯』國民圖書、1922年12月
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