安土桃山時代

後北条氏に仕えた最強忍者・風魔と風魔小太郎 【戦での活躍と風魔一族の最期】

今回は前編に引き続き後編である。

後北条氏に代々仕えた忍者・風魔とその首領・風魔小太郎は、実際の戦でどのように活躍したのだろうか。

河越夜戦

日本三大奇襲の1つとされる天文15年(1546年)の「河越夜戦」(5度目の河越城の戦い)において、風魔一族が活躍したとされている。

関東管領の山内上杉家の上杉憲政、扇谷上杉家の上杉朝定、古河公方の足利晴氏、その他、関東諸大名連合軍合わせて約8万の大軍勢が、北条家の北条綱成がたった3,000の兵で守る河越城を包囲した。

後北条氏に仕えた最強忍者・風魔と風魔小太郎

画像 : 北条氏康 public domain

この時の北条家当主は「相模の獅子」と謳われた北条氏康であったが、駿河の今川氏と戦っていて援軍が出せずにいた。
この危機に北条氏康は武田信玄に今川氏との仲介を頼み、今川氏と和睦して8,000の兵で河越城に援軍に向かった。

正攻法ではとても歯が立ちそうもなかったので、北条氏康は敵に偽の降伏状を送り、油断した隙に夜襲を実行した。
その際、北条氏康は兵たちに「甲冑(鎧兜)をまとわずに戦え」と信じられない命令を出したという。

甲冑を脱いだ兵たちは音を消し去り、気配を消して敵に近づいて夜襲をかけて、この圧倒的不利な戦いに勝利したのである。

この戦いの勝利の立役者の1人とされているのが、風魔小太郎の命を受けて敵軍に潜み、情報操作と状況報告に励んだ風魔一族の二曲輪猪助(にくるわいすけ)である。

二曲輪猪助以外にも何人かの風魔忍者が敵陣に潜み、北条氏康の夜襲(奇襲)の際には内側から敵に襲い掛かり、戦場を大混乱に陥れたという。

黄瀬川の戦い

後北条氏に仕えた最強忍者・風魔と風魔小太郎

画像 : 北条氏政の肖像(1538-1590年8月10日)、後北条氏四代目当主

天正7年(1579年)北条氏政率いる北条軍は徳川家康と同盟を結び、武田勝頼率いる武田軍と黄瀬川を挟んで対峙していた。

この時、風魔小太郎が率いる200人の風魔忍者は日夜・天候に構わずに度々武田軍の陣を襲った。火を放ち馬の綱を切り、人質を取り、混乱による同士討ちを誘って、散々に暴れ回り、風魔一族の名を恐怖と共に世に知らしめたのである。

そのあまりにも激しい奇襲を武田軍は

「怨めしの 風魔が忍びや あら辛の乱波が夜討ちや」

と詠んで嘆いていたという。

この時、風魔忍者の暗躍を阻止しようと、夜討ち帰りの風魔衆に紛れて武田軍の兵士10人(※一説には武田の忍者・透波(すっぱ))が紛れていた。

これを察した風魔小太郎は、風魔一族の仲間識別法を使って透波を見抜き、全員を斬り捨ててしまった。この識別法は、互いに声を掛け合いながら一斉に立ち座りを繰り返す「立ちすぐり・居すぐり」と呼ばれるものである。

結果的に武田勝頼率いる武田軍は、北条軍と一戦も交えずに兵を撤退させ甲府に戻ったのである。

小田原征伐

後北条氏に仕えた最強忍者・風魔と風魔小太郎

画像 : 秀吉の小田原攻め 撮影gunny

風魔忍者が影として活躍し北条家は関東の覇者となったが、天正18年(1590年)天下統一を目指す豊臣秀吉小田原征伐によって北条家は敗北・降伏し、後北条家100年の歴史に幕が降ろされた。(※詳しくは 集団リンチ状態の小田原征伐 参照)

実は北条氏直が当主の頃、嫡男の北条氏直は風魔小太郎の宿の手配を支持する手紙に「もし風魔小太郎たちが狼藉を働いたら、小田原城へ訴えるように」と書いており、特定の村では農民たちの訴えにより、風魔小太郎一行の宿泊を禁じている所もあったという。

これらのことから風魔一族は、人目を避けて諜報活動に従事する忍者集団というよりも、闇夜に紛れて敵陣に奇襲をかけ、敵を混乱に陥れることに長けた武力集団で、狼藉や盗みを繰り返す無法者に近い集団であったとする見解もある。

実際に小田原征伐で主のいなくなった風魔小太郎と風魔一族は、後北条家がなくなった後には盗賊集団に落ちぶれている。

風魔一族の最期

後北条氏に仕えた最強忍者・風魔と風魔小太郎

画像 : 風摩小太郎と其一党(『武蔵野から大東京へ』より 絵:池田永治)

小田原征伐の後、風魔小太郎と風魔一族は江戸周辺を荒らし回る盗賊集団へとなってしまった。
主家の後北条家を滅ぼした豊臣家の臣下であった徳川家康を敵とみなしたのかもしれない。

江戸時代に入ると、かつて凄腕の忍者であった風魔小太郎と風魔一族は「悪の忍者軍団(盗賊集団)」として暗躍し、江戸幕府は頭を悩ませていたという。

そこで幕府は盗賊取り締まりのために、風魔小太郎と風魔一族に対し多額の懸賞金をかけた。

多額の懸賞金がかかったことで、かつて風魔一族と対立していた元武田家の忍者・透波で盗賊の高坂甚内(こうさかじんない 向崎甚内とも)が、裏社会のネットワークを使って風魔一族の隠れ家を探り当て、その場所を幕府(奉行所)に密告したのである。

その結果、風魔小太郎と風魔一族は捕縛され、慶長8年(1603年)風魔小太郎と風魔一族は処刑されてしまい、あっけない最期を迎えた。

密告をした透波の高坂甚内は風魔一族に代わって江戸の盗賊集団のリーダーになったが、後に盗賊のリーダーであることが発覚し、慶長18年(1613年)に捕縛され処刑されている。

おわりに

風魔小太郎の伝説は、どこまでが正しいのかは未だに謎である。

しかし文書に「風間出羽守」という人物が登場し、警備や諜報の任務にあたっていたことなど、風魔一族という非常に統率の取れたプロの忍者集団・乱波がいたことは確かである。

風魔小太郎と風魔一族は、最強の忍者集団として他の戦国大名や忍者たちを震え上がらせたのである。

関連記事 : 前編 ~実在した? 最強と謳われた忍者・5代目風魔小太郎の伝説

 

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