甲斐の虎
戦国時代、「甲斐の虎」と恐れられた武将がいた、その名は「武田信玄(たけだしんげん)」、言わずと知れた戦国最強の猛将と呼ばれた男である。
NHKドラマ「どうする家康」では、視聴者が思い描きそうな「理想の武田信玄像」を期待よりはるかに上回る「濃すぎる信玄」を、阿部寛氏が見事に演じている。
元亀3年(1572年)10月、信玄は2万5,000の大軍勢と共に西へと侵攻した。いわゆる「西上作戦」である。
武田軍の前に後の天下人・徳川家康は大惨敗を喫した。
信玄が西へ向かった目的は何だったのか?
今回は武田信玄の「西上作戦」について前編と後編にわたって掘り下げていく。
なぜ信玄は西へ向かったのか?
武田信玄の名が天下に轟いたのは、上杉謙信との死闘「川中島の戦い」である。
5度に渡る国境を巡る謙信との戦いは、およそ12年にも及んだ。
だが信玄最大の敵は実は謙信ではない。後の天下人・徳川家康と織田信長なのである。
「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれた8年後、弱体化した今川領に隣国の信玄と家康が密約を結んで侵攻し、それぞれが今川領を割譲した。
ところが、これが対立の火種となる。信玄が家康との密約を破って国境の大井川を越え、家康の領地・遠江へと侵攻したからである。
信玄が密約を破った理由
両者の間には大井川という国境はあったのだが、状況次第という曖昧なものであった。
信玄からすれば「家康は遠江の東までは来ないだろう」と思っていたのに対し、家康は「遠江をしっかりと押さえる」という両者の考えのズレがあった。
また、信玄と家康の密約の間には信長が入っていた。
つまり信長を通じての密約だったため、両者の本当の意図が伝わっていたのかという疑問も残る。
この頃、信玄は信長と同盟関係にあった。
一方、信長は信玄だけではなく家康とも同盟を結び、両者の仲介を果たした。
ところが信玄は徳川領に侵攻したことで家康と敵対、更に今川家の当主を庇護した北条や、積年のライバル・上杉謙信など、周囲を敵に包囲されて絶体絶命の危機に陥ってしまった。
その起死回生の秘策として、信玄はとんでもない手に打って出る。
信玄はなんと宿敵・謙信と和睦を結ぼうと試みた。それは第5次「川中島の戦い」から5年後のことである。
だが同じ頃、家康も謙信との同盟の締結を進めていた。
家康は武田家と織田家の婚礼を妨害するなど、信玄と信長の同盟を破綻させようと画策していたのである。
これを知った信玄が黙っているはずもなく「家康は口先ばかりの嘘つきだ!」と非難し、信長に家康との同盟関係を解消するように迫ったという。
更に信玄はそれまで敵対関係にあった北条とも同盟を締結し、信玄にとって当面の敵は家康1人のみとなった。
こうして信玄の「西上作戦」の下準備は着々と整えられて行った。
信玄が傘下の武将に宛てた手紙には「3年に渡るうっぷんを晴らさなければならない」と書かれていたという。
このように3年に渡った家康との抗争だったが、信玄の恨みは家康1人のみに向けられたものではなかった。
この頃、東美濃を巡って信長との関係もギクシャクしていたのである。
一方、この頃の信長は窮地に立たされていた。
浅井・朝倉・本願寺や一向一揆の宗教勢力・松永久秀など周囲を反信長勢力に囲まれていたからである。
信玄にとって、3年のうっぷんを晴らす絶好の機会が訪れたのだ。
元亀3年(1572年)10月、52歳になる信玄は、将軍・足利義昭の「信長追討令」の呼びかけに応じる形で信長・家康打倒のため、総勢2万5,000の兵で「西上作戦」を実行しようと甲府を出発した。
後編では、いよいよ開始された西上作戦と三方ヶ原の戦いについて解説する。
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