『どうする家康』真田信繫登場
NHK大河『どうする家康』は、豊臣秀吉との対立という新たな展開に入ってきた。
そうした状況で、旧武田領の上野国を北条氏に譲るため、家康と真田氏との対立が勃発する。そんな中、『どうする家康』では、いよいよ戦国のヒーロー・真田信繁が登場。今後、信繁がどのように描かれるかが楽しみだ。
真田信繁については、本サイトでも幾度となく紹介されている。今回は信繁の生涯をよりリアルに感じてもらいたく、筆者自身が、信繁が活躍した旧跡に実際に足を運び、取材をした『真田信繁戦記』をお届けする。
真田信繁の生涯における戦いぶりを描くため、数回にわたる掲載となることをお許しいただきたく、第1回は「甲府脱出編」として、1582(天正10)年の武田勝頼滅亡時の信繁と本領真田への脱出について紹介しよう。
エピローグ
天正10年(1582)、甲斐の名族武田氏はついに滅亡した。人質として甲斐(甲府・新府)に滞在していた信繁ら真田一族は、真田氏の本領真田の庄へ脱出を図った。
この脱出劇は、母親の山之手殿をはじめ女房衆も一緒だったため、その逃避行は難航を極めたものの、なんとか真田にたどり着いた。この時、戦闘が行われたかどうかは不明だが、信繁にとってはまさに戦いに等しい経験であっただろう。
追いつめられる武田勝頼
真田信繁は、1567(永禄10)年に誕生したとされる。その生誕地は諸説あるが、父昌幸が臣従した武田氏の本拠・甲府の生まれとするのが妥当であろう。
1582(天正10)年、織田信長は、嫡子信忠を総大将にした総勢約10万人の軍勢を信濃・甲斐に向け派遣した。織田・徳川連合軍に大敗を喫した長篠の戦い以降、一度は勢力を回復した武田勝頼であったが、高天神城を見殺しにしたことが響いて、武田方の諸将の多くが勝頼を見限っていた。
武田一門衆の木曽義昌・穴山梅雪などの離反が相次ぐ中、高遠城を除く武田諸城は、ほとんど抵抗することなく織田軍に降伏した。
昌幸の策と武田氏の滅亡
こうした状況の中、真田昌幸は武田勝頼に自分の居城岩櫃城(群馬県吾妻郡)へ逃れ、再起を図ることをすすめ、一足先に岩櫃に戻り、その城下に勝頼の居館を築いて、対織田戦の準備を進めていた。
しかし、勝頼は、昌幸ではなく岩殿城(山梨県大月市)の小山田信茂を頼った挙句、信茂の裏切りに遭い、1582(天正10年)4月、天目山に追い詰められ、一族主従ともども自害。ここに新羅三郎義光以来の甲斐源氏の名族・武田氏は滅亡した。
苦難を極めた真田への脱出
武田氏滅亡時に信繁は、新府城(山梨県韮崎市)あるいは、躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)の城下に母の山の手殿、兄・信之とともにいたと推測される。
真田一族に対しては、すでに勝頼からは自領・真田への帰国許可が出ており、織田勢が迫る中、真田一行は300人ほどで甲州脱出を図ったとみられる。
甲府から真田までは最短距離でも優に100kmを超える。筆者もしばしば、甲府方面から上田方面へ車で移動するが、八ヶ岳を縫うようにして北杜市から佐久平を越えていく道はかなりの距離と険しさだ。
そんな険しい難路を越えて、やっとのことで信濃国にたどり着いた彼らは鳥居峠で、落ち武者狩りの一揆と見られる軍勢に進路を塞がれた。
この危機に、山の手殿は自害を、信之・信繁は、討死を覚悟したことだろう。
しかし、一揆の正体は、昌幸が差し遣わした迎えの軍勢だった。信繁ら真田主従は、なんとか無事に真田にたどり着いたのである。
幸いなことに信長は、武田勝頼滅亡後における信濃・上野の国人衆に対する処分は寛大だった。それは、勝頼を奉じて岩櫃城で徹底抗戦を行おうとした昌幸に対しても同様であったようだ。
もし信長が、執拗に真田討伐に動いていたら、真田一族の運命はもとより、その後の歴史は大きく変わっていたことだろう。
第2回は、真田昌幸が徳川軍を破った最初の第一次上田合戦を紹介する。
関連記事 : 現地取材でリアルに描く『真田信繁戦記』 第2回・第一次上田合戦編
※参考文献
高野晃彰編・真田六文銭巡礼の会著『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ、2015年12月
失礼します。文中
「真田信繁は、1516(永禄10)年に誕生したとされる。」
とありますが、永禄10年は西暦1567年に相当するのではないでしょうか。
西暦1516年生まれだと、大坂の陣(1614~1615年)時点で100歳近くなってしまいます。
ご指摘誠にありがとうございます。
修正させていただきました。