戦国時代、自分のご先祖さまは何をしていたんだろう?あるいは自分と直接の関係はなくても、同じ苗字の人たちが何をしていたのか、気になりませんか?筆者はなります。なるのです。
というわけで、今回は関東地方の覇者・後北条氏(小田原北条氏)が遺した書状から、角田(つのだ)一族の痕跡を探してみました。
たとえメジャーでなくとも、自分と同じ苗字の先人か一生懸命に生きていた様子を探るのは、とても楽しいのでおすすめです。
それではさっそく調べたところ、とりあえず三人の角田がいました。
一、角田大和守(やまとのかみ)
一、角田矢初助(やぞめのすけ)
一、角田大前(だいぜん。大膳か)
※読み方は暫定です。
それぞれ、見ていきましょう。
名主として江ノ島神社に毎年百疋を寄進した角田大和守
東郡(ひがしごおり)用田郷(ようだごう)にて、毎年百疋充奉寄進候(きしんたてまつりそうろう)、名主角田大和守かたへ被仰付(おおせつけられ)、可被為請取之(これをうけとりなさるべく)候、子孫長久之御祈念、不可有御油断(ごゆだんあるべからず)候、恐々謹言、
甲子九月廿日 板部岡右衛門尉康勝雄(花押)
江嶋下御坊床下
※相州文書所所収鎌倉郡下之坊文書「板部岡康雄寄進状写」
【意訳】江ノ島下御坊(江ノ島神社・辺津宮か)のご神職様へ。相模国東郡用田郷(神奈川県藤沢市)より毎年百疋を寄進するよう、名主の角田大和守に申し付けました。
(※)名主というとお百姓(農民)をイメージしますが、大和守という官途名(私称の官職)から、武士身分であったと考えられます。
子孫が末永く栄えるよう、油断なくご祈念下さるよう、謹んで申し上げます。永禄7年(1564年)9月20日、板部岡康雄(いたべおか やすかつ)
……板部岡康雄は後北条氏の第3代・北条氏康に仕えました。江ノ島神社に子孫繁栄を祈願するため、名主の角田大和守に毎年100疋すなわち1貫、現代の貨幣価値で約10万円(諸説あり)を寄進させたそうです。
果たして、大願は成就したのでしょうか。
武田信玄との合戦で武功を立てた角田矢初助
於駿州神原、武田信玄與(と)対陳之刻(たいじんのとき)、其方(そのほう)魁勲功(さきがけのくんこう)無比類働(ひるいなきはたらき)、勇武顕然、神妙之至也、為此恩分、牧野郷之内五十貫文令扶助畢(ふじょせしめおわんぬ)、彌懃軍役(いよいよぐんえきにはげみ)、可抽忠節之状(ちゅうせつぬきんずべきのさま)、仍而如件(よってくだんのごとし)、
永禄十二年巳五月七日 「氏康」(花押は氏政)
角田矢初助との江
※村田武氏所蔵文書「北条氏政判物写」
【意訳】駿河国富士郡蒲原において、武田信玄と戦った折、真っ先駆けたそなたの手柄は比類なきものである。勇気と武力は明らかで、実に素晴らしい働きであった。恩賞として、伊豆国田方郡牧野郡(静岡県伊豆の国市)に50貫文を与える。これからも奉公に励み、人一倍抜きん出た忠義に期待する。永禄12年(1569年)5月7日 北条氏康(ただしサインは子の北条氏政)角田矢初助殿へ。
……永禄12年(1569年)と言えば、甲斐の武田信玄が駿河の今川氏真との同盟を破棄、駿河へ侵攻していた時期。北条氏は今川氏真への救援として武田軍と交戦。蒲原の合戦において、角田矢初助は真っ先に突撃して武勲を立てたようです。
恩賞もしっかり賜り、今後より一層奉公に励んだことでしょう。
北条氏邦から賞賛された角田大前
此度可致忠信由(こたびちゅうしんいたすべきよし)、しんみやう(神妙)ニ候、はたらきしだい、大くるみあいわたすに付而者(つきては)、馬上之者に十貫つつ、かちしゆニ者(徒士衆には)三貫つつ、いといもり下く屋ぬます之内をもつて、ふち(扶持)よすへしく候、いつれもあひたんち(相談じ)、きつそく(急速)ちうしん(忠信)もつとも(尤も)に候、当地中山、今夜ほん意に候条、すくニくらうち(倉内)とりつめ(取り詰め)へく候、大て者なくとかいとうをほさせられ候、しんたい(進退)の儀者、のそミのことく(望みの如く)ひき立へき者也、仍如件、
壬極月廿四日 (朱印)
- 新木河内守(あらき かわちのかみ)殿
- 同大前(だいぜん。大膳か)殿
- 新木六郎兵衛(ろくろうべゑ)殿
- 同千助(せんすけ)殿
- もろ田雅楽助(諸田?うたのすけ)殿
- 林出雲守(はやし いずものかみ)殿
- 和田ぬき平左衛門尉(わたぬき へいざゑもんのじょう)殿
- 新木與兵衛尉(よへゑのじょう)殿
- 同與三衛門尉(よぞうゑもんのじょう)殿
- 同大覚助(だいがくのすけ。大学助か)殿
- 角田大前殿
- 新木七郎衛門尉(しちろうゑもんのじょう)殿
- 賀藤筑前守(がとう ちくぜんのかみ)殿
- 同丹後守(たんごのかみ)殿
- 藤井内匠助(ふじい たくみのすけ)殿
- もろた采女(諸田?うねめ)殿
- 新木彌十郎(やじゅうろう)殿
- つつミ筑後守(堤?ちくごのかみ)殿
- 新木雅楽助(うたのすけ)殿
- 宮澤甚左衛門尉(みやざわ じんざゑもんのじょう)殿
此外貮百四人(このほか204人)
「衆中(しゅうちゅう。かたがたへ)」
※林厚一氏所蔵文書「北条氏邦朱印状」
【意訳】此度の忠功はまことに神妙であった。武士(騎兵)には十貫、足軽(歩兵)には三貫ずつ褒美をとらせる。また相談の上で追って所領も与えよう。更に合戦があるので、働き次第では望みのままにお引き立てがあるだろう。天正10年(1582年)12月24日 北条氏邦(ほうじょう うじくに朱印)※以下、褒美の対象者は割愛。
……天正10年(1582年)と言えば、本能寺の変で織田信長亡き後、空白地帯となった武田遺領をめぐって徳川家康と争った時期です(天正壬午の乱)。
最終的には徳川と和睦したものの、角田大前はじめ多くの者たちが武勇を奮い、大いに名を高めたのでした。名前の出ている20人の内、最も多い新木一族(10人)の存在も気になりますね。
終わりに
以上、後北条氏の書状から戦国時代に活躍した角田一族について調べてみました。
こういう古文書を見ていると、沢山の名前が並んでいて、その一人々々に悲喜こもごもの人生があったのだと偲ばれます。
また他の一族についても、じっくり調べてみたいですね。
※参考文献:
- 杉山博ら編『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』東京堂出版、1989年9月
- 杉山博ら編『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』東京堂出版、1990年9月
- 杉山博ら編『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』東京堂出版、1991年9月
- 杉山博ら編『戦国遺文 後北条氏編 第六巻』東京堂出版、1995年12月
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月
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