今回は、日本の戦国時代において多くの方が「最強」と述べる戦国武将『甲斐の虎』こと武田信玄について触れていきたい。
武田信玄の戦における生涯戦績は「通算72戦49勝3敗20分」と圧倒的だが、今回はあえて負け戦に注目していく。
戦国時代における負けの定義はあやふやな部分があるが、目標未達成だったか大きな被害が出たことは確定だ。
信玄の負け戦とは、一体どんな戦いだったのだろうか。
武田信玄は誰に負けたのか?どんな戦で負けたのか?
信玄が負けたと明確に定義された戦いは、以下の通りである。
○小県・上田原合戦
戦があった年:1548年
主な相手武将:村上義清
戦の種類:野戦・対陣戦
○小県・戸石城の戦い(砥石崩れ)
戦があった年:1550年
主な相手武将:村上義清
戦の種類:攻城戦
3敗目となる戦については様々な意見があり、例えば『葛尾城攻め』に関しては葛尾城も落城しているため、負け戦とは言い切れない。
他の負け戦とされる『安曇・小岩岳城攻め』に関しても、武田軍は3000人の兵で500人で守る小岩嶽城を攻撃し、落城させている。
3敗目に関して掘り下げていくと尺が足りないので、今回は明確な負け戦とされている『小県・上田原合戦』と『小県・戸石城の戦い(砥石崩れ)』について掘り下げていきたい。
武田信玄の負け戦① 小県・上田原合戦
上田原合戦は、1548年に行われた村上義清との野戦だ。
「信長の野望」をプレイしたことのある人にとっては、村上義清は上杉謙信の部下というイメージがあるかもしれないが、元々は北信濃の戦国大名である。
この戦まで、武田軍は信濃制圧を目指して連戦連勝と絶好調だったが、ここで足止めを食らった形だ。
村上義清側は、添付地図左上側にある天白山の居城・葛尾城と北東部の戸石城を拠点とし、産川(千曲川支流)を挟んで対陣する形となった。
この戦は野戦および対陣戦であり、基本的には五分五分の状況でぶつかったと言えるだろう。
この戦の詳細が記された『勝山記』では、武田軍は5000の兵士で野戦に臨んだが、なんと板垣信方・甘利虎泰・才間河内守・初鹿伝右衛門が討ち死にしたと記述されている。失った武将の質を考えると大敗北である。
『甲陽軍鑑』では、武田軍8000余に対して村上軍5000余の戦いとされている。村上軍は屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利らが戦死、武田軍は重臣の板垣信方と甘利虎泰らが戦死し、負け戦だったと記されている。
敗因の通説としては「板垣信方が調子に乗って敵前で首実検をした」ことであり、その不意を突かれた板垣信方が討ち取られ、先陣が敗れたこととされている。
いずれにせよ重臣が討ち取られているので、信玄にとって手痛い敗北だったのは間違いなさそうだ。
武田信玄の負け戦② 小県・戸石城の戦い(砥石崩れ)
この戦いは「武田信玄が負けた戦」として非常に有名だ。
通称『砥石崩れ』と呼ばれているが、『戸石崩れ』と記載されることもある。
戦があった年は1550年であり、初めて負けた小県・上田原合戦から2年後の戦いで、対戦相手も同じ村上義清である。
決定的に違うのが戦の種類であり、この戦いは武田軍が村上義清の出城である砥石城を攻める、いわゆる「攻城戦」であった。
この戦いの敗因は、堅城である砥石城をなかなか落とせなかったこと、苦戦している状態で村上軍の後詰に挟まれたことの2点だろう。
その結果、挟み撃ちになってしまい、戦況が一気に不利になって多くの死傷者を出す大敗となった。
信玄にとっては歴史的大敗であり、殿軍を中心に1000人もの将兵を失うことになったのだ。
信玄にとって予想外だったのは、砥石城の堅牢さだろう。
砥石城は「東西が崖」というとんでもない立地で、攻め口は南西の崖しかなく、圧倒的に守るのに有利な地形だった。
サイズだけ見れば小さな城だったが、地形故の圧倒的優位性は信玄の想像以上だったのだろう。
さらに、城内の兵卒の士気も非常に高かったという。
これは信玄が、前の戦で滅ぼした勢力の一部を奴隷として売り払った結果、その残党が村上側に取り込まれ、その憎しみによって圧倒的な士気の高さとなってしまったのである。
結果として、武田信玄は同じ相手に手痛い2敗を喫してしまい、一生涯消せない汚点となった。
参考文献 : 『勝山記』『甲陽軍鑑』
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