「近世一の英雄」と称えられる斎藤正義
岐阜県可児市に、山門・本堂・鐘楼だけの小さな寺院・浄音寺がある。
この寺の背後は険しい崖となっており、その下には木曽川が滔々と流れる。
そして、山門の前面100mほどの場所に、標高約277mの古城山が聳え、梯郭式山城の美濃金山城の遺構が残る。
この浄音寺には、一枚の肖像画とそれに添えられた賛文が残され、賛文には以下のように記されている。
わが東濃の斎藤氏亜相公は、近世一の英雄にして、歳なお少壮なり。智名勇功をかくす。古人に過ぎたる者すくなし。堅く一城を築き、高く雲雨を凌ぐ。そのかさねを石にし、その門を鉄とする。懸崖峭立(けんがいしょうりつ)すること幾千仞(いくせんじん)なるを知らず。実に望むべくしてもよじのぼるべからず。外には巨川有り。大岳(たいがく)は水際に直徹す。そもそもまた精兵・吏卒(りそつ)は弓矢を羅(つら)ね、旗旌(きしょう)をたて、外衛すること光儻(こうとう)のごとし。
現代語に訳すと、以下のようになる。
我が東美濃の斎藤大納言卿は、歳はまだ若いが近世一の英雄だ。その智名や勇名は、昔から並ぶものがないほどだ。卿は、堅固な一城を築いた。その城は、高い山に築かれ、石垣や鉄の門で守られている。城は険しい崖の上に築かれ、その高さは測ることができない。登ろうとしてもよじのぼることは不可能だ。巨大な木曽川を外濠として、城のある大きな山はその水際に接している。城兵や家臣たちは、いずれも強兵揃いで、弓矢を連ね、旗を立て、敵の侵入を許さない。
そして、この肖像画に描かれた人物こそが、今回その生涯について紹介する、斎藤大納言正義(さいとう だいなごん まさよし)なのだ。
近衛家の庶子として生まれ、比叡山で出家
肖像画の斎藤大納言正義は、出陣のいでたちで、床几に腰を下ろした精悍な姿で描かれている。
浄音寺を建立したのは正義なので、その人物を良く書くのは当たり前だ。だが、そう考えても正義が武将として、いかに強く、優れていたかを伺い知ることができる文章ではないだろうか。
筆者は、この肖像画を見る度に思うことがある。それは正義の風貌だ。
全体的には精悍なイメージを受けるが、目が大きく、鼻筋が通っている。そして、やや下ぶくれの容貌は、高貴さを感じさせる。
実は、正義の出自には幾つかの説がある。中でも有力なのが、『金山記全集大成』にみられる、高級貴族・近衛家の生まれというものだ。
それによると、彼は、1516(永正13)年、関白・近衛植家(このえたねいえ)の子として生まれ、幼名を多幸丸といった。
ただ、正義の母は身分が卑しい出であったため、近衛家を継ぐことができず、庶子として扱われてしまう。
そして13歳の時、比叡山横川の恵心院で出家したという。
近衛家を継いだのは、正義の弟の前久だった。
前久は、従一位・関白、左大臣、太政大臣と昇りつめた人物だが、足利将軍家や織田信長など、時の武家権力に翻弄され、名門貴族の生まれとはいえ、その半生を流浪に費やしたことでも知られている。
一方、比叡山で修業を行う正義は、僧としての修行に合わせ、武芸を磨くことにも熱心だったのではないだろうか。当時の比叡山は、たくさんの僧兵を抱えていて大名並みの武力をもっていた。
賛文にあるような、「その智名や勇名は、昔から並ぶものがない」とされたのは、この比叡山での生活が背景になっていた可能性が高いのだ。そして理由は不明だが、16歳の時に還俗した。
美濃の斎藤道三のもとで武将として活躍
比叡山を降りた正義は、実家の近衛家に戻らず、美濃の斎藤道三を頼った。
それは、近衛家から正義に付けられた家臣・瀬田左京の姉が、道三の愛妾だったからだという。
ただ、当時の道三は守護職・土岐頼芸の配下だった。道三は曲者ぞろいの美濃国人たちを服従させるために、近衛家という高貴な血筋を引く正義を養子として迎え入れたのだ。
16歳の正義は、道三の家臣・日根野弘就(ひねのひろなり)の軍中で、300人の手勢を率いて初陣を飾る。敵は大桑城に依る土岐頼純とされる。
そしてこの後、道三が東濃への橋頭保として高山(古城山)山頂に、掻き上げの城を築くと、2,000人の兵を率いる城将として城の守備を任された。
このことから推測できるのは、道三が正義に対し、単に血筋だけでなく武将としての力量も認めていたということだろう。
名門・斎藤持是院家を継ぎ「大納言」を名乗る
1537(天文6)年、21歳となった正義は、道三の命により鳥峰城(後の兼山城・金山城)を築城する。
そして、この頃から正義がその官位として「大納言」を名乗るようになる。
ちなみに大納言とは、太政官に与えられた官職の一つで、正三位相当である。
南北朝時代以降は形骸化したものの、今でいえば国務大臣に相当する地位なので、いくら戦国時代であっても、おいそれとは名乗れない官位だった。
ではなぜ、正義は大納言を名乗ることができたのだろうか。その理由は二つ考えられる。
一つは、正義が道三の養子という立場でありながら、美濃守護代の斎藤持是院家の名跡を継いだからだ。
同家は、斎藤妙椿(さいとう みょうちん)の時、室町幕府奉公衆となり、その官位は、美濃守護職の土岐成頼の従五位下を超えて、従三位権大僧都を得た。
その孫である利親が大納言を名乗ったが、1496(明応5)年に戦死。その名跡を正義が継ぎ、支配地である現在の岐阜県八百津町・金山町を引き継いだとされるのだ。
道三は守護土岐頼芸を擁きながらも、自分の養子・正義を名家である斎藤持是院家の後継者とすることで、将来の野望、すなわち美濃の国盗りの糧としたのであろう。
そしてもう一つは、周囲の誰もが「正義は近衛家の出身」と周知していたことだろう。太政大臣・関白職に就くことができる近衛家なら、大納言を名乗ったとしても何の問題もないからだ。
その後も正義は、道三が見込んだ通りの活躍を見せる。
道三の方面司令官として、久々利城(岐阜県可児市)に依り、道三に抵抗する土岐三河守(久々利悪五郎頼興)との戦いでは、有利に戦況をすすめ、道三の与力達に感状を与えている。
ただ、この頃から正義と道三の間に微妙なズレが生じていた。それは土岐頼芸が、身分的に正義と道三を同等に見ていたことだった。
おそらくは、功臣といえども素性の知れない道三と、名門近衛家の出である正義とでは、見方が異なったのではないだろうか。
名門の血筋が悲劇的な最期を招いた
1541(天文10)年、道三は頼芸を追放し、美濃の国盗りに成功した。
同年、正義は久々利城の土岐三河守と講和。三河守は正義の配下に組み込まれた。
そして1548(天文17)年、道三は長年にわたって争っていた尾張の織田信秀と和睦を結び、娘の帰蝶(濃姫)を、信秀の嫡男信長に嫁がせた。
しかしこの年、正義の身に突然悲劇が襲った。
2月、土岐三河守に酒宴に誘われた正義は、久々利城中で暗殺されてしまったのだ。
三河守は正義を殺害すると、すぐさま鳥越城を攻め落とした。これは明らかに道三に対しての反逆である。しかし、道三は動くことがなかった。
このことから、正義暗殺は、道三の意向によって行われた可能性が高いと考えられている。
頼芸を追放したものの、美濃において道三の立場は決して盤石ではなかった。そんな道三にとって正義の存在は、武将としての力量と高貴な血筋から、自らを脅かす新たな憂いになったのではないだろうか。
しつこく抵抗する美濃国人衆が正義を主として擁立すれば、道三の美濃平定に大きな障害となる。それ故に、道三が正義を抹殺したと考えられるのだ。
ここに、名門貴族出身の戦国武将・斎藤大納言正義は、33歳という若さでその波乱に富んだ人生に幕を閉じた。
彼の死後、道三は美濃国人衆を圧倒し、完全なる国盗りを成功させるのである。
※参考文献
横山住雄著 『斎藤道三と義龍・龍興』戎光祥出版 2015年9月
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