戦国時代には、知恵を駆使して活躍した人物が数多く存在した。
中には、大名自らが卓越した能力を発揮した例もあるが、多くの場合、家臣の中に「知恵者」として主君を支えた者たちがいた。
彼らは戦術や戦略を駆使して戦を勝利に導き、時には政敵や障害となる人物を排除するなど、主君のためにあらゆる手段を講じたのだ。
ただし、正式には「軍師」という役職は存在せず、これは後世の軍記物や物語で生まれた概念である。
それを踏まえたうえで、ここでは理解を容易にするため、知恵者たちを「軍師」という言葉で表現して解説することとする。
今回は、存在感が際立つ5人の軍師の逸話に焦点を当て、彼らの活躍について紹介する。
また、これらの逸話には伝承色が強いものも含まれており、必ずしも全てが史実に基づいているわけではない。そのため、史実と伝承の両面を楽しみながら読み解いていただければ幸いである。
上杉家臣 宇佐美定満(定行)
上杉謙信の重臣として知られる宇佐美定満(うさみ さだみつ)。
『北越軍記』などの軍記物で「越後流軍学の祖」として登場する宇佐美定行という人物が存在するが、一次資料では確認することができない「幻の軍師」である。
そのため「幻の軍師」定行の伝承は、宇佐美定満をモデルに脚色された可能性がある。
天文23年(1554年)の川中島の戦いでは、武田軍を追い詰める采配を見せたと伝えられている。また、関東出兵でも一定の武功を挙げたとされるが、具体的な内容についての史料の裏付けはない。
永禄7年(1564年)には、謙信の義兄である長尾政景を舟遊びに誘い、舟の栓を抜いて政景もろとも溺死したという逸話が伝えられている。このとき政景の遺体の肩下に刀傷があったことから、謙信の命を受けた定満が、政景を謀殺したという説もある。
なお、政景の子・景勝が、謙信の死後に上杉家の当主となっている。
武田家臣 山本勘助
武田信玄の家臣として広く知られる山本勘助(やまもと かんすけ)は、『甲陽軍鑑』をはじめとする軍記物によって名が知られた武将である。大河ドラマの主人公としても取り上げられ、その知名度は現代まで広く浸透している。
その実在について長年疑問視されていたが、一部の史料には「山本菅助」として記録され、近年発見された文書からも「菅助」の名が確認されている。
天文13年(1544年)頃、武田晴信(信玄)に仕官し、築城術や戦術の才能を発揮。海津城や小諸城の築城に携わり、足軽大将として数々の合戦で活躍し、後年には出家して「道鬼」を名乗ったともいわれる。
永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、「啄木鳥戦法」を献策したが失敗し、戦場で討死したとされている。
息子も「菅助」を名乗ったため、「初代菅助」「二代菅助」と区別されることもある。
ただし、山本勘助の活躍については『甲陽軍鑑』をはじめとする軍記物の影響が大きく、前述したようにその実在すらはっきりしていない人物である。
今川家臣 太原雪斎
今川義元の教育係を務めたことで知られるのが、太原雪斎(たいげん せっさい)である。
雪斎は14歳で仏門に入り、義元が出家した際にも同行していた。
義元に読み書きや兵法など幅広い教育を施し、将来の当主としての素養を身に着けさせた。
その後、義元が今川家当主に就くための家督争い「花倉の乱」では、雪斎が義元を擁立し、敵対する異母兄・玄広恵探を退けた。これにより、義元は当主の地位を得ることができた。
義元が家督を継いだ後、雪斎は内政、外交、軍事の全てにわたり活躍した。
分国法である「今川仮名目録」の追加条文制定に携わるなど、義元の信頼を一身に集めた雪斎は、「黒衣の宰相」とも称され、今川家の屋台骨を支える存在となった。
特に「甲相駿三国同盟」の締結に尽力し、今川家の勢力拡大を可能にしたのは、雪斎の手腕が大きかっただろう。
しかし、弘治元年(1555年)に雪斎が死去した頃から、今川家の隆盛にも陰りが見え始める。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで義元が討たれると、今川家は領内の国衆の離反が相次ぎ、没落への道をたどることとなった。
雪斎の死は、今川家の命運を分ける大きな転換点だったのかもしれない。
両兵衛の一人 竹中半兵衛
秀吉には、卓越した才覚を持つ軍師が二人いた。その二人は「両兵衛」または「二兵衛」と呼ばれる。
竹中半兵衛はその一人である。半兵衛は通称で、本名は竹中重治という。
彼はその知略から、三国志の天才軍師・諸葛孔明になぞらえられ、「今孔明」と称された。
半兵衛は、元々美濃の戦国大名、斎藤義龍とその子・龍興に仕えていた。
しかし龍興が酒や享楽に溺れ、一部の側近だけを寵愛したことに失望し、わずかな手勢で斎藤家の本拠地・稲葉山城を急襲した。
半兵衛は龍興を敗走させることに成功したが、下剋上を目的とせず、後に城を明け渡して美濃を去った。
その後、浅井長政の元に身を寄せるが、織田家の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が「三顧の礼」で迎え、半兵衛は秀吉の参謀となる。以後、秀吉の軍略において重要な役割を果たした。
有岡城の戦いでは、信長が黒田官兵衛の息子の処刑を命じた際、半兵衛は信長を一時的に欺いて官兵衛の息子を救出。この行動が結果的に正しかったため、信長も半兵衛を許したという逸話が残っている。
天正7年(1579年)、三木合戦の陣中で病に倒れ、36歳の若さでこの世を去った。
両兵衛の一人 黒田官兵衛
秀吉に仕えたもうひとりの両兵衛は、黒田官兵衛である。
官兵衛は通称で、出家後は「如水」と号した。
官兵衛は当初、小寺政職(こでら まさもと)に仕えていた。
信長の才能を評価していた孝高は、主君の小寺政職に織田家への臣従を進言し、小寺家が織田に臣従すると羽柴秀吉の与力となった。
秀吉の中国攻めでは、竹中半兵衛と共に戦術家としての手腕を発揮した。半兵衛が病に倒れ若くして世を去ると、官兵衛は竹中家を支える役割を担い、竹中家の存続に尽力した。
天正10年(1582年)の本能寺の変が勃発し、信長が討たれる。
この時、中国地方で毛利氏と対峙していた秀吉に「御運が開けましたな」と進言した逸話は有名である。※中国大返し
天正17年(1589年)5月、家督を嫡男の長政に譲ったが、その後の小田原征伐では北条氏降伏の使者を務め、朝鮮出兵にも従軍するなど、その影響力は衰えなかった。
秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは、九州で積極的に戦い、西軍の勢力を次々と打ち破るなど、老いてもその頭脳が衰えることはなかった。
頭が良すぎたため、秀吉からも警戒されていたという。また築城名人としても知られる。
おわりに
有名大名たちの傍らには知恵と戦略で支えた家臣たちがいた。彼らは主家を陰から支える存在として、戦術や内政で重要な役割を果たした。
上記5名の他にも、伊達政宗を支えた片倉小十郎、徳川家康の参謀として名高い本多正信、毛利家を支えた小早川隆景など、その知恵と戦略でもって活躍した武将は数知れない。
この時代を生き抜くためには武勇だけでは不十分であり、いかに難局を乗り越えるかが試される時代でもあった。彼らの機転や戦略、決断の数々には現代にも通じる知恵が込められている。
戦国の世を知恵で切り開いた家臣たちの逸話を、ぜひ深く掘り下げてみてほしい。
参考:『戦国大名家臣団 興隆と滅亡』『甲陽軍鑑』『北越軍記』他
文 / 草の実堂編集部
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