徳川家康は、豊臣氏に代わって政権を担う前に多くの未亡人を側室としている。
家康は女性の才能を理解し、其々に相応しい活躍の場を提供した。
今回は16を数える側室の中でも、茶阿局(ちゃあのつぼね)と阿茶局(あちゃのつぼね)を中心に、彼女たちがどのように能力を発揮したのか紹介したい。
庶民から側室になった茶阿局とは?
家康の六男・松平忠輝の母は、茶阿局である。
彼女は、如何にして家康の側室になったのか?
徳川歴代将軍(初代~10代まで)の生母や側室を伝える『以貴小伝』(いきしょうでん)に、彼女の記載がある。
茶阿は、元々は静岡県金谷町に住む身分が低い男の妻だった。
しかし金谷を治める代官が、美人な茶阿に一目ぼれして自分の妻にしようとしたのである。
なんとその代官は夫を秘かに殺害し、彼女を手に入れようとしたが、茶阿は従わなかった。
茶阿は3歳の娘を抱いて、見つからぬよう逃げ出した。
そして鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴したのである。
暫く経ち、代官は捕まって罪を問われ、刑罰が行われた。
この事件がキッカケで、彼女は家康の奥向きに仕えることとなる。
普通に考えれば代官の主張が通る可能性が高かった。下手をすれば身分の低い茶阿は偽証を疑われたはずだ。
その状況下で茶阿はきちんと説明をし、臆せず質問に答えられた訳だ。
茶阿は、美人なだけでなく行動力に富み、賢く優れた女性だったと云えよう。
最初は役目も低かったが徐々に家康に信頼され側室となり、六男・松平忠輝の母となったのである。
これは並大抵の事ではない。何故なら彼女の家は地侍で半分農民のようなもので、武家の子女ではない。
読み書きは出来たと考えられるが、武家女性が持つ教養に欠けたはずだ。
城中に入り、礼儀作法から学ぶ必要があったであろう。
にもかかわらず、豊臣政権下では家康より浜松城の家内取り締りを任された。
そして故郷と思われる静岡県金谷町一帯の寺の権利を守り、時には寺同士の紛争解決にも力を尽くした。
茶阿は、家康の下で利害調整という役割を熟す程、能力を開花させた女性だったのである。
阿茶局は、稀にみる優れた外交官だった
阿茶局も、並みならぬ手腕を発揮した女性だった。
阿茶は、甲斐国(山梨県)武田氏から今川氏家臣となった飯田直政の娘である。
主替えは、武田信玄の許可を得て行われたという。
彼女は同じ今川家臣・神尾忠直に嫁ぐが23歳で夫と死に分かれた。
息子二人が幼いまま取り残される状況で、家康の側室となる。
阿茶は、馬術や武術に長けた美女で、戦場にも若武者姿で付き従ったという。
『以貴小伝』では「阿茶はあまりに優れていたので、家康の戦陣(軍兵宿営場)まで同伴した」と記されている。
しかし小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉と織田信雄 vs 徳川家康)において阿茶は陣中で流産してしまい、子が産めぬ身体となった。
そして関ケ原の戦い以後、彼女は「外交交渉」という役割を担った。
阿茶局の主な外交とは?
・大坂の陣(徳川幕府と豊臣家で行われた合戦)で、豊臣秀頼(秀吉の跡継ぎ)と母・淀を相手に関係修復を探った
・将軍が朝廷訪問をする際に、幕府と朝廷の仲立ちをした
・108代後水尾天皇の妃となった2代将軍徳川秀忠の娘・和子の母親代わりの守役を務めた
以上が挙げられる。
阿茶は、織田信長の姪にあたる淀や秀吉の跡継ぎ秀頼をいかに徳川幕府に組み込むかという難題に挑み、朝廷の権威を損なわぬよう徳川の言い分を伝える役目を果たしたのである。
彼女が手腕を発揮できたのは、家康からの絶大なる信頼が大きい。
なぜ彼女達は、徳川家を支える役割を果たしたか?
側室の身分に甘んじながら、彼女達はなぜ家康を支え続けたのだろうか?
家康は、戦乱の時代に生まれた。
未だ中世の名残が濃いこの時代、男女問わず自助しなければ、生き残れない。
必然的に女性達は、家の存続や子供の行く末を願い、力を発揮せねばならぬ時代でもあった。
戦乱を駆け抜けた女性達は、周囲から夫の代理を勤める要求をされる。
持ち城も一つだけではない。
現代風に言い換えれば、支店管理を任せられる信頼できる者が求められたのである。
頼れる強い実家がない未亡人側室は、家康と一蓮托生だったため必死に役目を果たした。
徳川家の存続は、前夫の子供の未来も保証してくれる。
前夫の家系を繋ぐ役割を果たすためにも、家康は心強い庇護者だった。
彼女達が力を尽くしたのは、そうした恩に報いるためでもあった。
終わりに
戦国時代の最終的な覇者・家康は、信長や秀吉のような天才型ではなかったがデキる男だった。
男女の能力差に偏見がなく、内政や外交、家中取り締まりにおいて優秀な側室を使い続けた。
それは家康の母・於大の方との関係にも要因がある。
家督を継いだ於大の方の兄・水野信元が今川から織田についたため、彼女は夫の松平広忠から離縁された。
その後、兄の意向で坂部城(愛知県知多郡阿久比町)の主・久松俊勝と再婚した。
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い以後、家康は織田氏と同盟を結ぶ。
そして家康は母を迎え、義父・久松俊勝と異父兄弟3人を家臣にし、松平姓を名乗らせた。
氏が変わろうと、於大は我が子を隔てなく愛した。
家康も、側室の連れ子や縁戚の家系が続くよう気を配っている。
母の辿った運命が、家康の女性観に大きな影響を与えたとも言えそうだ。
参考図書
「戦国女系譜」巻き之二 楠戸義昭 著
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