築山殿の暗殺と信康の切腹
天正7年(1579年)8月29日、家康の正室・築山殿(瀬名姫)が、遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村で、徳川家の将来を危惧した家康の家臣・岡本時仲と野中重政によって殺害された。
そして9月15日に二俣城に幽閉されていた嫡男・松平信康が自害させられるという徳川家を揺るがす大事件が起きた。
現在放送中の「どうする家康」で描かれたように、家康は瀬名姫と竹千代(信康)・亀姫を今川家から救い出すために、今川家の重臣の子である鵜殿氏長・氏次との人質交換で救出したほど、大切な妻と嫡男であったはずである。
この事件は未だに謎の部分が多く、文献によって様々な説がある。
今期は、通説や各種文献を参考に「徳川家のタブー・黒歴史」とされているこの事件の真相について掘り下げていきたい。
通説「三河物語」
通説として一番有名なのは「三河物語」によるものである。
織田と徳川は同盟を深めるために、信長の娘・徳姫と、家康の息子・信康を婚姻させた。
2人の間には娘が2人誕生したが、男が生まれなかった。
そこで築山殿は、元武田家の家臣の娘で部屋子をしていた2人を信康の側室にした。
そんなこともあり、徳姫は今川家の血を引く姑・築山殿と折り合いが悪く、築山殿は徳姫の恨みを買ってしまった。
徳姫は信康とも不和になったので、天正7年(1579年)父・信長に12か条の手紙を書き、その使者として家康の重臣・酒井忠次に託した。
その手紙の内容は主に
「信康の乱暴な振舞い」
「築山殿が自分と信康の仲を裂こうとしている」
「築山殿が徳姫に意地悪をする」
「武田家の家臣の娘を信康の側室にした」
「信康と築山殿が敵である武田家と内通している」
「築山殿が唐人の医師と密通している」
というものであった。
信長は事の真相を忠次に問いただした。
しかし忠次は信康を全くかばうことなく「12のうち10は事実」と認めてしまった。
これを聞いた信長は激怒し、家康に信康の処刑を要求したのである。
家康は信長に逆らうことができず、泣く泣く腹心の家臣に2人の殺害を命じた。
8月29日に築山殿が殺害され、幽閉されていた信康は9月15に自害した。
信康自刃事件の疑問
上記がこれまでの通説とされてきていた。
徳姫との不仲は松平家忠の「家忠日記」によると事実のようであるが、それだけで信長が婿の信康に死を命じたことには少々疑問が残る。
この時期、信長は相撲や蹴鞠見物に興じており、そのような緊張関係を同盟者の家康に強いた様子は窺われない。
「家忠日記」には、「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」との記述があるが、信康が仲違いしたのは実は徳姫ではなく「御家門(松平康忠・久松俊勝・松平康元)」だったという説もある。
また、事件の発端となった徳姫に対し、徳川政権成立後に家康が2,000石の領地(実際には徳姫の義弟・松平忠吉に)を与えている理由も通説では説明ができない。
さらに徳姫と築山殿は別居しており、よそ者の徳姫が徳川家内でそこまでの諜報活動ができたことにも疑問が残る。
2人の側室を迎えたことも男が生まれていなかったことが理由であり、この時代での側室はごく普通のことであったはずだ。
築山殿が唐人医師と密通があったというのも、築山殿を貶める中傷だったという説もある。
徳姫が信長に12か条の書状を送ったとされているが、一説では家康の重臣・酒井忠次が信長に会いに行く予定があり、徳姫が忠次に手紙を託して届けさせたという。そのような内容の書状を家康の重臣・忠次が信長にわざわざ届けるというのもおかしく、もし託されたならば信長ではなくまず家康のもとに先に届けるのが筋だと思われる。
しかも酒井忠次はそのまま徳川家の重臣のままで、徳川四天王の1人となっている。
そして信長ほどの人物が娘の手紙とは言え、家康に確認もせずに信康を殺せと命じたのも不可解である。
「信長公記」の中でも信憑性が高いとされている「安土日記」や「当代記」では、信長は「信康を殺せ」とは言わずに、徳川家の内情を汲んで「家康の思い通りにせよ」と答えているという。
実は家康の生母・於大の方の兄・水野信元が、天正3年(1576年)信長の命令に奉じた家康の意を受け、重臣の石川数正に殺害されている。
信康の後見人が石川数正だったこともあり、徳姫と信康の仲が険悪になったのではなく、於大の方と信康の仲が険悪になっていた可能性もあるという。
こうしたことを踏まえて「信長の命で、家康が信康と築山殿を殺した」という通説は、後世の創作ではないかと疑問視されているのである。
その他の原因
○信康不行状問題
永禄10年(1567年)家康が浜松城に移ると、信康と築山殿は岡崎城に残った。
信康と徳姫との間に男子が生まれなかったため、信康は腹を立てていた。
さらに「松平記」「三河後風土記」によると、信康は気性が大変激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かったという。
信康は、領内の盆踊りに行った時、服装が貧相な者や踊りの下手な領民を弓矢で射殺し「殺した者は敵の間者だった」と主張したという。
さらに信康は「鷹狩りの際に僧侶と出会うと獲物が少なくなる」という因習を信じており、鷹狩りに行った時に出会った1人の僧侶を縄に括りつけて殺してしまったという逸話もある。
家康は、このような信康の不行状にとても悩んでいた。
○父子不仲説
近年「家康と信康の対立が原因」という説も唱えられている。
信康は武勇に優れていたが上記のように粗暴な行いが多く、家康に対して「謀反(逆心)」を企てたという説がある。
「家忠日記」によると、今回の事件が起きる前年、家康は三河衆に対して「信康のいる岡崎に詰めることは、今後は無用である」と指示が出していたことが記されている。
また、家康が信康を岡崎城から追放した際に、信康と岡崎衆との連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に「信康と内通しないこと」という起請文を出させていることから、父子間で深刻な対立があったことが伺われる。
「大三川志」には、家康の子育て論として「幼い頃から健康に育ちさえすれば良いと甘やかしてしまったため、成人してから教え諭しても信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」とある。
「当代記」にも「信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下にも見限られた」とあり、父子不仲が深刻だったことが推測できる。
信長は、こうした徳川家の内情を察して「家康の思い通りにせよ」と言ったのではないだろうか。
〇派閥抗争説
この頃の徳川家は、常に戦の前線で活躍し、武功と出世の機会を多く掴んでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援、外交問題などを担当していた岡崎城派に分裂していた兆しがあった。
両者の対立が、家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、信康を担いだ岡崎城派による「家康追放」未遂事件が起こったという逸話もある。(真偽は不明)
岡崎城派が信康を担いでクーデターを画策し、築山殿もそれに関係していたのではないかという説である。
築山殿の暗殺
元武田家の家臣の娘2人を信康の側室にしたのは事実だが、上記の「築山殿が岡崎城派のクーデターの共犯だった」という文献は見つかっておらず、築山殿は冤罪だった可能性が高いという。
信康は大浜城から堀江城に移され、天正7年(1577年)8月10日には二俣城に幽閉されてしまう。
家康の重い判断を知った築山殿は岡崎から東海道を東へと進み、浜松城の家康のもとに信康の助命嘆願に向かった。
しかしその途中の8月29日、家康の家臣である野中重政・岡本時仲によって佐鳴湖の湖岸で築山殿は殺害された。享年39であった。
最初は自害を迫られたが、それを拒んだ事から2人の独断により首をはねられ、暗殺されてしまったという。
信康の切腹
8月3日、家康は関係修復のために岡崎城で信康と対面したが、話し合いの結果、修復が不可能であることが明らかとなった。そのため、家康は翌8月4日に信康を岡崎城から大浜城に移した。
8月9日、信康は大浜城から堀江城に移される。8月10日に家康は岡崎城に西三河衆を招集し、信康と内通しない旨の起請文を提出させる。
8月29日、築山殿が二俣城への護送中に暗殺される。その後、時期は不明だが信康は二俣城に移る。
二俣城で信康は、家康の信頼が厚かった大久保忠世に自らの無罪を強く主張した。しかし9月15日、ついに切腹させられることとなる。
服部半蔵が介錯を行う予定だったが、半蔵は刀を振り下ろせず、代わりに検死役の天方通綱が急遽介錯を行うこととなった。
その後、通綱は信康の介錯をしたことに思い悩んだのか、出奔して高野山に隠棲している。
おわりに
嫡男である信康は、わずか21歳の若さで切腹させられた。
当時、家康には信康と同じく双子で生まれた次男の於義丸(後の結城秀康)が6歳になり、さらに生後わずか4か月の三男の長松(後の徳川秀忠)もいた。
しかし家康にとっては苦渋の選択だったであろう。
真相ははっきりしていないが、信康の行動や父子の不和が原因であれば信康を殺す必要はなく、蟄居や謹慎、追放あるいは流罪といった処分で済ませることができたはずである。
家康は後に天下人となり「東照大権現」として崇められるが、この事件は徳川家にとって黒歴史とも言えるものであり、これまでの通説は織田信長という戦国の魔王を利用して作り上げられた可能性も否定できない。
参考文献 : 三河物語、家忠日記、信長公記
昨日の「どうする家康」を見ました。こういう風に描きましたか?という感じです。
じゃあ、瀬名姫があんな風に大同盟を結んだと史実にありますか?あれはドラマならではの演出でしょうが?