於大の方とは
於大の方(おだいのかた)とは、戦国の世を統一し260余年にも及ぶ平和な江戸時代を築き上げた天下人・徳川家康の生母である。
NHKドラマ「どうする家康」では松嶋菜々子が演じている。
於大の方は、尾張国知多郡緒川城主・水野忠政の娘として生まれた。父・忠政は居城・緒川城からほど近い三河国にも所領を持っていた。
当時三河国で勢力を振るっていた松平清康(家康の祖父)の求めに応じ、有効な関係を築くために松平広忠(家康の父)のもとに14歳で嫁いだ。
その翌年の15歳の時、於大の方は松平家の嫡男・竹千代(家康)を産んだ。
翌年に水野家の家督を継いだ兄・信元が、今川方から織田方へと鞍替えしたために於大の方は離縁され、幼い竹千代と引き離されてしまう。
その後、他家に嫁ぐことになった於大の方だが、幼くして人質生活を送る竹千代(家康)のことをずっと気にかけていたという。
今回は、家康を想い続けた天下人の生母・「於大の方」の生涯についてわかりやすく解説する。
出自
於大の方は、享禄元年(1528年)尾張国知多郡の緒川城主・水野忠政と於富の方(後の華陽院)の間に娘(次女)として生まれた。
母の於富の方(おとみのかた)は、稀にみる美貌の持ち主であったという。
父の水野家の祖先は鎌倉時代に源頼朝に仕え、戦国時代に尾張国知多半島で勢力を伸ばした豪族だった。
父・忠政は居城・緒川城の近辺の三河国にも所領を持っていたために、当時三河国岡崎城を拠点に権勢を深めていた松平清康(家康の祖父)と関係を深めようとしていた。
※一説によると於大の方の母・於富の方の美貌に魅了された松平清康は、水野忠政に懇願して於富の方と離縁させて自分の妻としたという。
そして於大の方も、母同様に戦国の姫の悲しい運命を迎えることになる。
松平氏との関係強化のために天文10年(1541年)14歳の於大の方は、清康の息子で松平家の当主となっていた松平広忠のもとに嫁いだ。
翌年に於大の方は松平家の嫡男となる竹千代(後の家康)を産んだのである。
離縁と家康との別れ
父の死後に水野家の家督を継いだ兄・水野信元が、天文13年(1544年)に松平家が与していた今川家から織田家へと鞍替えしてしまった。
そこで松平広忠は、裏切り者の妹である於大の方を離縁し、幼い竹千代と引き離すことになってしまった。
ただこの頃、今川家と織田家との対立はまだ本格化しておらず、水野家と松平家の関係自体に離縁の理由があると言われている。
元々この婚姻は、広忠の叔父で松平家の名代として実権を握っていた松平信孝が推したものであったが、信孝が広忠や重臣たちから追放されたことで水野家と松平家の関係が悪化した可能性は高い。
戦国の世ではこのような話は珍しいものではなく、多くの女性が政略結婚のために涙にくれることは多々あった。
この時、岡崎城の家臣が於大の方を送ってくれたのだが、於大の方は「兄は短気なために岡崎の者が来たとなれば斬り殺すかもしれないので、いつか和睦の機会が訪れた時の妨げになるかもしれない」と岡崎の家臣たちを気遣ったという。
そこで岡崎の家臣たちは納得し、於大の方を乗せていた輿を領民に引き継いで帰国したという。
於大の方は、いつか両家が和睦する日を案じていたのである。いずれ天下人となる家康の母らしく賢明な判断ができる人だったのだろう。
再婚
兄・信元の意向で、於大の方は天文16年(1547年)知多郡阿古居城主・久松俊勝に嫁いだ。(阿古居城は坂部城とも言われる)
これもいわゆる政略結婚であった。
2人の間には3男3女が産まれているが、その間も於大の方は、竹千代のことを気にかけ続けた。
竹千代が織田氏の人質になった時には、使者を送って様子を伺わせ、季節に合わせて着物や菓子などを届けさせたという。
松平広忠が亡くなり、竹千代が今度は今川氏の人質になると、於大の方にとって幸運な出来事が起きる。
何と於大の方の母である於富の方が出家して「華陽院」となり、今川氏の居城・駿府で暮らし始めたのである。
華陽院は孫である竹千代の養育を今川義元に懇願し、元服するまで面倒を見続けた。
この間、於大の方は竹千代と会うことは叶わなかったが、つながりができたことで母子はお互いの絆を強めていった。
再会
竹千代は元服して松平元康となり、築山殿(瀬名姫)を娶ったことで、とうとう於大の方と対面するチャンスを掴む。
永禄3年(1560年)今川義元の尾張への進軍の途中で、元康は母・於大の方が暮らす阿古居城を訪ねることに成功した。
こうして2人は約17年振りに対面を果たし、元康は長年伝えられなかった母への感謝の気持ちを述べたという。
その直後に「桶狭間の戦い」が起き、織田信長に今川義元が討たれたことで、元康は今川家から独立し岡崎城に入り、信長と同盟を結んで戦国武将としての道を歩むようになった。
元康は名を「徳川家康」に改め、久松俊勝と於大の方との3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大の方を母として迎えたのである。
天正3年(1576年)お於の方の兄で家康の叔父・水野信元は信長に謀反を疑われ、信長の命により家康は信元を殺し、一時期水野家は滅亡した。(※後に信長は、信元は冤罪だったとして水野家を再興させている)
戦国時代において非常な決断をせざるを得ないことが多かった家康だが、母・於大の方は常に温かく見守ってくれていたという。
於大の方は夫・久松俊勝が亡くなると出家して「伝通院」と名乗った。
天下人の母として
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利し、晴れて天下人となった家康は、京都の伏見城で江戸幕府開府の準備を進めた。
慶長7年(1602年)には母・伝通院を京都に招き、天下人になってから初めての対面を果たした。
この時、家康61歳、母は75歳だった。
お互いに様々な困難を乗り越えた末の再会に、伝通院は家康の悲願達成を喜んだことだろう。
この後、暫く京都に滞在していた伝通院は、天下人の生母として後陽成天皇に拝謁し、秀吉の妻・高台院とも面会し徳川家が豊臣家に敵意が無いことを示したという。
京都に来てから5か月ほど過ぎた頃から病に伏せるようになり、慶長7年(1602年)8月28日、家康に看取られながら於大の方(伝通院)は亡くなった。(享年74)
おわりに
戦国時代を生きた女性は政略結婚が多く、自分が思うような人生を送れることは少なかった。
於大の方は、幼くして生まれたばかりの竹千代(家康)と離れながら他家に嫁いだが、人質になった我が子を心配し想い続けていた。
「桶狭間の戦い」の前日に17年振りの対面を果たした後、家康は独立した戦国大名となり、母と対面し暮らすことができた。
まさか、自分の息子が天下人になるとは思わなかったであろうが、御所で天皇と拝謁した時の喜びは如何ばかりだったであろう。
最期は生き別れていた息子に看取られ、これ以上ない理想的な最期を迎えたのではないだろうか。
参考文献 : 徳川家臣団の系図
TVでは家康にづけづけ言う母親だが、本当は息子を立てていたのですね
分かるー!家康の下に3人の弟を生んだけどやはり長男って母親からすると一番かわいい存在でしかも会えなくて嫁もいいるづけづけドラマで上に立つのは姑のさがを表現しているのではないかな。
あれはTVの演出で武将の3人の男の母ならあんなに頻繁に家康のところに行けたのか?でも築山殿にづけづけ言う嫁と姑合戦は見ているこっちが楽しい