前編では、結城秀康の前半生における苦労と、独立した大名となった過程を解説した。
今回は、大名となった結城秀康のその後について掘り下げていきたい。
関ヶ原の戦い
天下人・豊臣秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康は豊臣家の居城・大坂城の西の丸に入り、幼少の秀頼に代わって政務を執るようになった。
秀吉のもとでずっと耐えて来た家康だったが、満を持して天下取りに動き出したのである。
慶長5年(1600年)家康は天下取りの最大の壁である会津の上杉景勝に上洛命令を出すが、景勝がこれを拒否すると、家康は会津征伐を宣言して6月に会津に向かって出陣した。
これを好機と挙兵したのが豊臣家の安泰を第一と考え、家康の振る舞いに意を唱えていた石田三成だった。
三成は、西日本における徳川家の拠点である伏見城を攻めて陥落させた。
会津に向かう途中の下野国の小山で三成の挙兵を知った家康は、重臣たちを集めて軍議を開いた。
家康は「すぐに上方に引き返して三成を討つ、しかし上杉に対する抑えも残していかねばならぬ」と考えた。
軍議の結果、家康は一旦江戸に戻って東海道で西へ、家康の三男・秀忠は中山道で西に向かうことになった。
そして上杉景勝の抑え役に選ばれたのが結城秀康だった。
だが秀康は不満をあらわに「父上の仰せでもこの決定には従えぬ」と言って、上方への出陣を強く願い出たという。
なぜ家康は、秀康を上杉景勝の抑え役に選んだのだろうか?
それは関ヶ原の戦いにおいて一番心配なのは「背後」だったからである。
家康の本拠地・江戸に上杉が南下してくると大変なことになってしまう。
安心して関ヶ原の戦いに挑むために、家康は後方の守備を完璧に固めておきたかったのだ。
家康は秀康を高く評価していたからこそ、上杉の抑え役に選んだのである。
しかし秀康は、この決定に納得できなかった。
武将であるならば華々しい戦いをしたいと思うのは当たり前で、武に秀でた秀康が守備戦よりも主戦で活躍を願うのは当然のことであった。
家康は秀康に「抑え役」としての重要性をじっくり説き、秀康はようやく受け入れたのであった。
家康や秀忠が上方に向かって出陣すると、秀康は下野国の宇都宮城に入って上杉軍に備えた。
そんな中、上杉軍が江戸に攻め込んでくるという噂がどこからとなく広がり、秀康軍の兵たちがこれに動揺する。
すると秀康は上杉景勝宛てに
「上方で反乱が起ったため家康は西へ向かった。留守番を仰せつかり退屈で仕方ないので一戦交えたいが、そちらへ攻め込むか、こちらへ攻め込んでこられるか、ご返答頂きたい」
という書状を送った。
これに対して景勝は「謙信以来、主人の留守に合戦を仕掛けるようなことはしていない。家康公がいる時に一戦交えようぞ!」と返答をした。
これで上杉軍が江戸に攻め込むという噂はなくなり、家臣たちは秀康の知勇を賞賛したという。
一方、西に向かった家康は9月15日に関ヶ原で西軍と激突した。天下分け目の戦いはわずか半日で家康が率いる東軍の大勝利となった。
石田三成と懇意だった上杉景勝は西軍の敗戦を知ると家康に降伏し、秀康は一戦も交えることなく無事に役目を果たしたのである。
将軍になれなかった秀康
その一方で、大失態を犯した者がいた。
それは中山道から西に向かった弟の秀忠だった。
秀忠は総勢3万8,000の徳川本隊を預かっていたものの、信州の上田城で真田昌幸・信繁親子に苦戦し、肝心の関ヶ原の戦いに遅参してしまったのである。
これに激怒した家康は、秀忠が弁明にやって来ても暫く会おうとしなかったという。
それでも家康の跡を継いで2代将軍になったのは次男の秀康ではなく、三男の秀忠だった。
なぜ秀康は、2代将軍に選ばれなかったのだろうか?
「徳川実記」によると、家康は五人の重臣を集めて誰に家督を譲るべきか意見を求めたという。
本多正信は「秀康様は武勇絶倫で智謀にも長ける、しかも長子ゆえ世継ぎに定めるべき」と秀康を推した。
大久保忠隣は「乱世において武勇が大事ですが、天下を治めるならば文徳が大事、秀忠様はもとより謙遜の志が深く孝心も厚い」と秀忠を推した。
井伊直政は「関ヶ原の戦いで奮闘した四男の松平忠吉様が良い」と忠吉を推した。
家康は数日考えた後に「大久保の申したことが我が意に叶った」と述べたという。
乱世を終わらせて泰平の世を目指していた家康は、「これからは武勇に優れた秀康よりも、実務能力に長けた秀忠の方が将軍に適している」と考えたのである。
他には秀康を養子に出してしまったことで、長年身近に置けなかった事情もあっただろう。
そのことに猛省したのか、秀忠は身近に置いて育て帝王学を指南した。官位も中納言であり、家康の内大臣に次いで飛び抜けていた。
そんなことも二人の運命を分けたと言えるのではないか。
越前国主に就任
上杉景勝の抑え役を任されていた秀康は、景勝が西軍の大敗を知って降伏したことから一戦も交えずに終戦を迎えた。
とは言え家康は「此度の合戦で勝利を得たのは、秀康が奥州筋を手強く抑え関東が静かだった故である。一世の大慶これに過ぎるものはない」と秀康を絶賛した。
秀康は東軍の武将の中で最も活躍したとして、下総国結城10万1,000石から越前国68万石に大加増されたのである。
秀康が越前に入ったのは、慶長6年(1601年)7月だった。
27歳にして初めて自分の力で所領を手に入れた秀康は、居城の建造を開始し、それに合わせて城下町作りや上水の整備にも着手した。
父・家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。
その翌年、秀康は越前拝領の御礼として江戸に参勤するが、その際に品川まで出迎えたのが家康の跡を継ぐことが決まっていた弟の秀忠であった。
秀忠は駕籠の先行を秀康に譲ろうとしたが、秀康が遠慮をしたために並んで進んだという。
秀康が江戸城に入ってからも、秀忠は手厚くもてなした。
秀忠は、心から兄の秀康を尊敬していたようである。
自分の立場が上になったとしても、秀忠にとって兄・秀康は武将として一流で、尊敬に値する人物であったのだ。
早過ぎた死
慶長10年(1605年)秀忠は2代将軍に就任した。
秀康は、越前に築いていた居城・福井城と城下町がおおむね完成した慶長11年(1606年)頃から、病が相当に悪化し体調が優れない日が多くなった。
この時、秀康はまだ33歳だった。
体調は一向に回復せず悪化の一途をたどるばかりだった。
そんな秀康の病状を知った家康は、見舞いの書状に「秀康は勇猛で軍功もあり、越前一国のみ与え置くのは本意ではない。平癒すれば25万石を加増して百万石としよう」と記したという。
しかし、秀康が家康のその書状に目を通すことはなかった。
慶長12年(1607年)4月8日、家康からの書状が届く前に、秀康は完成したばかりの福井城で亡くなった。享年34、早過ぎる死だった。死因は梅毒とされている。
家康は秀康の死を深く痛み、越前の人々も我が親を失ったかのように嘆き悲しんだという。
おわりに
結城秀康は、不遇にめげず乱世を懸命に生き抜いた。
2代将軍になれなかったために家康から疎まれていたという説も多いが、実際には家康にとってなくてはならない存在だった。
泰平の世となった江戸時代は、家康と秀吉の間を取り持ち、関ヶ原の戦いで貢献した秀康なくしては始まらなかったと言っても過言ではないかもしれない。
その生き様は後世に語り継がれ、秀康が礎を築いた越前の国・福井県では、今でも「良きお殿様」として尊敬されている。
参考文献 : 徳川実記
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歴史にifは無いがもし、秀忠が激怒して真田昌幸・信繁親子ともっと戦って、もっと遅参したら結城秀康か松平忠吉が2代将軍になっていたのかもと思うと、歴史って本当に面白いですね。