関ヶ原に遅れてきた二代将軍
徳川秀忠 とくがわ・ひでただ
[森崎ウィン もりさきうぃん]
幼名・長丸(ちょうまる)。家康と於愛の間に生まれ、信康亡きあと、両親のもとで嫡男として大切に育てられる。母に似て大らかで、明朗快活な青年だが、家康にとっては物足らないところもある。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より。
徳川家康の三男・徳川秀忠。
長男の松平信康は築山殿事件により自害し、次男の結城秀康は他家へ養子に出されたため、彼に跡目が回ってきたのでした。
ところで、秀忠という名前の文字は誰から貰ったのでしょうか。
【松平・徳川家略系図】
……松平清康―松平広忠―徳川家康―徳川秀忠……
こうして見ると、彼の祖父に当たる松平広忠と「忠」の字が共通しているようにも見えます。では「秀」の字は?
この時代、秀と聞いてピンと来るのは……そう、あの猿こと豊臣秀吉です。そう言えば次男の秀康も、養父となった秀吉から秀の字を貰っていますね。
というわけで今回は、長丸が徳川「秀忠」に改名した(させられた?)エピソードを紹介。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では……恐らく割愛されるでしょうけど。
人質として上洛した長丸
時は天正18年(1590年)1月、家康は長丸を上洛させました。相模国小田原の北条氏政・氏直を攻めるに際して、長丸を人質に差し出すためです。
当時、家康は次女の督姫(おふう。母は西郡局)を北条氏直に嫁がせていたため、心変わりを疑われたのでしょう。
長丸を護衛したのは徳川家中の若き猛将・井伊直政。果たして1月15日に秀吉と謁見しました。
「おぉ、長丸ぎみ。ようお越しくだされたのぅ」
秀吉は大喜びで長丸たちを出迎え、大層にもてなしたと言います。さすが天下の人たらし、子供相手でも手抜かりはありません。
……天正十八年の春 長丸君を都に下せ給ひ。はじめて秀吉に見参せしめらる。秀吉大によろこび 君の御手をひき。後閣につれゆきさまざまもてなされ。大政所みづから御ぐしをゆひ直し御衣装をも改めかへ。金作の太刀はかしめ。重ねて表方に誘はれ……
※『東照宮御実紀附録』巻五「天正十八年秀吉借家康領地内諸城」
秀吉は自ら長丸と手をつないで聚楽第を案内して回り、母の大政所に頼んで長丸の髪を結い直してあげました。
更には黄金で拵えた太刀を与え、共に京都の町を案内して回るおもてなしぶりです。
「その方らも、遠路長丸ぎみの護衛ご苦労である」
一方で長丸と引き離され、その身を案じる井伊直政らに対して、秀吉はねぎらいの言葉をかけました。
……御供せし井伊直政等にむかひ。 大納言殿には幸人にてよき男子あまたもたれしな。 長丸いとをとなしやかにてよき生立なり。たゞ髪の結様より衣服の装みな田舎びたれば。今都ぶりに改めてかへしまいらするなり。いはけなき子を遠き所に置れ。 亜相もさぞ心ぐるしく待遠に思ふらめ。とく供奉してかへれとて。直政はじめ人々にもとりどりかづけものしてかへされしなり……
※『東照宮御実紀附録』巻五「天正十八年秀吉借家康領地内諸城」
「大納言(家康)殿は本当に立派な男児をたくさんお持ちであるな。長丸ぎみはまこと利発で育ちのよさがよう分かる。しかしあの田舎じみた結髪や装束はいただけない。いま都で流行りの様に改めて差し上げておるところだ」
ひとまずは無事と聞いて一安心。秀吉は続けて言います。
「幼い嫡男を遠く京都へ送り出さねばならず、亜相(大納言=家康)殿もさぞ心苦しく、再会を待ちわびておろう。こたびは長丸ぎみを人質にとるのはやめにしたから、早く連れ帰って差し上げよ」
これを聞いた井伊直政らは喜びに沸き、秀吉から餞別を受け取ったということです。
秀吉から秀の字をもらった長丸、改名をどうする?
「短い間でしたが、お世話になりました。素晴らしいおもてなしに感謝いたします」
長丸が京都を去る時、秀吉に別れの挨拶を告げました。秀吉は満面の笑みでこれに答えます。
「うむ。またいつでも遊びに来るがよいぞ……ところで、長丸という名前は徳川殿の御嫡男にはふさわしくないのぅ」
長く丸く(円満に)生きて欲しい。そんな願いの込められた幼名ですが、この際改名してはどうかと秀吉は提案します。
「とりあえず、武蔵守の官職を授ける(朝廷に推挙する)ゆえ、今後は武蔵守と名乗るがよい。また諱(いみな。実名)についても、わしの「秀」をやるから、帰ったら父上の「家」でも「康」でも好きにくっつけるがよいぞ」
「御意にございます」
こうして長丸たちは改名という宿題を持ち帰ることとなったのですが、これを聞いて家康は頭を抱えました。
秀吉の「吉」ならともかく「秀」を与えられてしまったら、「家秀」「康秀」など名前の下に置くことは失礼に当たるのでできません。
かと言って「秀康」は既に次男の結城秀康が使っており、それでは「秀家」だと完全に頭を踏みつけられているようで癪にさわります。
どうしたものか……そうだ!家康は自分の名前ではなく、徳川の筆頭家老・酒井忠次から「忠」の字を使うことにしました。
「左衛門尉(忠次)は当家きっての勇士なれば、長丸も肖(あやか)らせとうございます。そこで忠次の一字を合わせて秀忠と改名するのはいかがでしょうか」
家康からの報告を聞いた秀吉は(名前で家康を屈服させ損ねたと)内心舌打ちした?かも知れませんが、表向きはこれを大絶賛。
「まことによき名ぞ。左衛門尉は天下に隠れなき忠勇の士なれば、その威徳にあやかれよう」
かくして長丸は秀忠と改名したということです。いきなり名前を持ち出された当の忠次は、果たして名誉だったのか、それとも家康&秀吉の真意を見抜いていたのでしょうか。
終わりに
徳川秀忠、初めて秀吉へ謁見の時、松平長丸と披露す。秀吉、長丸は家康公の御子に不似合とて、武蔵守に為し、名乗は秀の字を進ぜらる。今一字は家の字なりとも、康の字なりとも然るべくとありしかば、家康其忝を謝し、去らば長丸は酒井左衛門尉子分に致置候間、忠次の一字を取て、秀忠とは如何之あるべくやと言はれければ、秀吉大に喜び、左衛門尉義は世に隠れなき者なり、武勇にあやからるゝ為めに、一段然るべしと言はれしとぞ。
※『名将言行録』巻之四十九 酒井忠次
以上が『名将言行録』が伝える徳川「秀忠」の命名由来となります。
※ちなみに『東照宮御実紀』を見ると、秀忠の改名(元服)は天正15年(1587年)8月。長丸は駿府にいたままで秀吉から「秀」の字を贈られたことになっています。今回は『名将言行録』の記述を基に『東照宮御実紀附録』を合わせたため、このようなストーリーになりました。
……扨島津義久も戦まけて降参せしかば。関白も帰洛し給ふ。 君これをほがせ給ふとて都へのぼらせ給ひしに。八月八日従二位権大納言にうつらせ給ふ。此程駿府にても 長丸君加冠し給ひ従五位下蔵人頭に叙任せられ。関白一字を進らせられ 秀忠となのらせ給ひ。その日又侍従に任じ給ふ。……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十三年―同十七年「秀忠加冠叙従五位下任侍従」
しかし「忠」の字は松平家の通字であり、ご先祖さまたち(松平親忠、松平信忠、松平張忠など)も多く使っていました。なので実際のところは秀吉の秀+広忠の忠が正解なのでしょう。
しかし酒井忠次が徳川家中で高く評価されていたのは確かであり、それでこんな逸話がまことしやかに広がったものと思われます。
今後、徳川秀忠が「どうする家康」でどんな活躍を魅せてくれるのか、森崎ウィンの名演に注目ですね!
※参考文献:
- 『名将言行録 6』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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