前編では、天下統一に向けて邁進する秀吉の良き右腕であり参謀でもあった、弟・秀長と千利休の死をとりあげた。
「人たらし」と呼ばれた秀吉は、この頃から少しずつ変貌していくのである。
無謀な野望
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画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain
天正13年(1585年)秀吉は、天皇を補佐する「関白」という座に就いた。
関白については下記の記事が詳しい。
豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく関白を選んだのか?
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/48970/
ところが天下統一を成し遂げ、ほどなくすると、その関白の座をあっさりと甥・秀次に譲ってしまったのである。
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画像:豊臣秀次像(部分)瑞雲寺所蔵
秀次に政を任せた秀吉は、ここからとてつもない野望を抱き突き進んでいく。
文禄・慶長の役
それは中国・明の征服である。(文禄・慶長の役)
文禄元年(1592年)日本軍約15万人が、明に従属していた李氏朝鮮に侵攻した。
その中には、加藤清正・福島正則・黒田長政・小早川隆景など、そうそうたる武将たちが名を連ねていた。
当初、日本軍は快進撃を続けたが、明からの援軍が到着すると形勢が逆転し、更に補給路を断たれてしまった。食料を絶たれ冬の厳しい寒さの中で疲弊していった日本軍は、休戦を余儀なくされる。
その後、日本にやって来た明の使者と、秀吉との間で講和交渉が行われたが、結局破談となった。
諦めきれない秀吉は、慶長2年(1597年)に再び約14万人のもの兵を朝鮮半島に派遣した。
しかし、またもや激しい抵抗にあい、秀吉の海外侵略は失敗に終わったのである。
なぜ明を攻めようとしたのか?
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画像 : 文禄の役(1592) public domain
一説には、現地の事情を全く知らずに攻め込んだことが敗因と言われているが、そもそもなぜ秀吉は大国・明の征服という無謀な野望を抱いたのだろうか?
それは、幾つかの説がある。
1つは、家臣たちに褒賞として領地を与えようとしたという説である。
それまでは戦で倒した相手の領地を取り上げ、武功を挙げた家臣たちに与えればよかったのだが、天下統一を果たすと与える領地がなくなってしまった。
そこで秀吉は国外に目を向け、中国・明を征服し、その領地を家臣たちに与えようとしたとされている。
もう1つは、明を中心にした東シナ海での貿易の主導権を握ろうとしたという説だ。
貿易を明に代わって秀吉主導で行えば、経済的に潤って家臣たちを養えるようになる。
しかし、この戦いは豊臣政権に予想以上の大打撃を与えたという。
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画像 : 加藤清正 public domain
加藤清正や福島正則ら、文禄・慶長の役に参加した武将たちは、経済的に大きな負担を強いられていた。
特に加藤清正は1万もの兵を出し、その兵士たちの船賃や食費などの遠征費を負担しなければならなかった。
とはいえ、秀吉に大きな恩義を感じていた清正らは、秀吉を恨む訳にはいかない。
そこで彼らの矛先は、秀吉の右腕として働く石田三成らに向いていったとも言える。
豊臣政権は、加藤清正や福島正則などの武断派と、石田三成ら実務を担っていた文治派に分かれていた。
2つのグループの間に大きな溝ができたのは、文禄・慶長の役がきっかけである。
その結果、関ヶ原の戦いでは武断派の多くの武将たちが、家康の東軍につくことになった。
これは、亡き秀吉にとっても大きな誤算だっただろう。
秀次の死(豊臣秀次切腹事件)
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画像 : 『伝淀殿画像』 public domain
秀吉と正室・ねねとの間には子どもが授かることがなく、秀吉は多くの側室を儲けた。そして天正17年(1589年)側室・淀殿が鶴松を産んだ。
しかし、鶴松はわずか3歳で早世してしまい、秀吉はその4か月後に甥・秀次に関白を譲った。
この時、秀次は24歳だった。
秀吉含め、誰もが後継者は秀次だと考えていたはずである。しかし、文禄2年(1593年)淀殿が男子・拾(後の豊臣秀頼)を産んだ。
すると57歳となっていた秀吉の中に、大きな迷いが生じた。
「秀次に関白を譲ったが、秀頼をわしの後継にしたい」
そして、文禄4年(1595年)事件が起きる。秀次に謀反の疑いがかけられたのだ。
それは、秀次を陥れるための秀吉の策略であった。
高野山に追放された秀次は、やがて自害した。
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画像 : (月岡芳年『月百姿』)高野山の豊臣秀次 public domain
秀次は自分の無実を訴えるために、自ら命を絶ったとも言われている。
この時、秀次の正室・側室・子どもたちまでもが、京都の三条河原で処刑された。
この秀次事件も、豊臣家の滅亡を早めた原因となったという。
秀次は教養があり、政治にも長けており、家臣たちからもとても慕われていた。
秀次を死に追いやったことも、秀吉の大きな誤算だと言われている。
また、なかなか子どもが誕生しなかった秀吉同様、秀頼も子どもが生まれる可能性が低いことも考えられた。
秀次には4人の男子がおり、その際には養子に迎えることもできたはずだが、秀吉は自らその道を断ち切ってしまったのである。
秀次の家族たちも全員処刑したことで家臣は混乱し、その残虐な行為によって民衆の心も離れてしまった。
徳川家康に対する誤算
秀吉は亡くなる直前に、家康らにこんな遺言を残したという。
「何卒秀頼のことをお頼み申す」
秀吉は、何よりまだ6歳だった息子・秀頼の行く末を案じていた。
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画像 : 徳川家康 孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』
そんな秀吉の思いを踏みにじるように、やがて家康は関ヶ原の戦いで豊臣政権を崩壊させ、慶長20年(1615年)大坂夏の陣で秀頼を自害に追い込み、豊臣家を滅亡させてしまった。
だが秀吉は生前、家康を見過ごしていた訳ではなく、かなり警戒していたと考えられる。
それは小牧・長久手の戦いで、家康に敗戦寸前にまで追い込まれるという苦い経験があったからだ。
家康の力を恐れた秀吉はその後、自分の母を人質として送るなどして何とか家康を自分の臣下にした。
そして小田原の北条氏を討ち取り天下統一を果たすと、家康に関東への国替えを命じたのである。
その裏には秀吉の思惑があり、自分たちがいる京都や大坂から遠く離れた場所に置くことで、動きを封じようとしたのである。
もう1つは、当時は統治が困難だった関東の領地を家康に与え、もし統治に失敗すれば領地を没収できるという目論見もあった。
家康を遠ざけ、あわよくば失墜させようと考えた秀吉だったが、結局その思惑通りにはいかなかった。
そればかりか、この国替えが豊臣家を滅亡に追い込む一因となったともいえる。
実は関東に住む人たちは、昔から独立心が強い気質だった。
こうした関東の気質や土地柄も、家康の野心の後押しになったのではないかと考えられる。
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画像 : 坂東平氏の英雄・平将門。豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」
また、もう1つ秀吉が家康を封じ込めるために巡らせていた策があった。
それは、前述した失敗に終わった文禄・慶長の役だ。
家康は250万石を有する最大の大名だったにもかかわらず、なぜか文禄・慶長の役には参戦していない。
そこには秀吉の思惑があったはずである。
秀吉は明を征服し、その領地を豊臣恩顧の大名たちに与えることで、家康に対抗できる勢力を作ろうとしていたのではないだろうか。
そうなれば豊臣政権も安泰となり、秀頼に心置きなく受け渡すことができる。
秀吉は、是が非でも明の征服を成功させたかったことだろう。
しかし、慶長の役の最中に、秀吉は夢半ばでこの世を去った。
秀吉の最大の誤算は、自らの死だったのかもしれない。
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