今回はNHK大河ドラマ『どうする家康』で注目が集まった、家康の長男・松平信康が切腹させられた原因に迫る。
多くの説があるので、代表的な説からその他の説まで簡潔に解説したい。
松平信康切腹の通説は『三河物語』
松平信康切腹の通説は『三河物語』であり、基本的にこの文献をベースに小説やドラマ、ゲームなどで描かれることが多い。
『三河物語』は、江戸時代初期の旗本・大久保忠教(おおくぼ ただたか)が書いたものだ。
忠教は1560年生まれで、1576年頃には兄・忠世と共に遠江侵攻に参加し初陣を飾っている。その後、第一次、第二次上田城の戦いにも参戦しており、歴史の当事者と言えるだろう。
『三河物語』は、戦国時代から江戸時代初期を知るための貴重な史料として扱われているものの、徳川史観に寄りすぎていることから正確性に欠ける部分もある。
特に、松平信康の切腹事件の内容は『家忠日記』や『安土日記』や『当代記』といった史料と内容が異なり、今では信憑性を問う意見も多い。
通説では信康の妻・徳姫が、信康や築山殿を非難する内容の手紙を父・信長に送ったことで、築山殿の死や信康の切腹に繋がったとされている。
しかし、『安土日記』や『当代記』では信長は「信康を殺せ」とは言っておらず「家康の思い通りにせよ」と述べていたという記載があり、それが正しければ家康が自分で判断して切腹させたことになる。
まずは、『三河物語』をベースにした通説を以下にまとめてみる。
●『三河物語』ベースの松平信康の切腹事件
信長の娘である徳姫と、信康の実母の築山殿は仲が悪かった。
というのも、築山殿は今川家と血縁関係があり今川方だったためである。
そのため、徳姫と築山殿は非常に折り合いが悪く、嫁と姑関係もこじれにこじれ続けた。
決定的となったのが、徳姫が産んだ2人の子供が立て続けに女子だったことである。(長女の登久姫は1576年、次女の熊姫は1577年に産まれた)
跡継ぎである男子を産めなかったことで築山殿にいびられ続けた。そして築山殿は元武田家家臣・浅原昌時の娘と、日向時昌の娘を側室に迎えたのである。
ついに我慢しきれなくなった徳姫は、築山殿と信康の悪行や武田家との内通を告発した「12箇条の手紙」を書き、徳川家の重臣・酒井忠次がその手紙を信長に渡した。
手紙を見た信長は忠次に真偽を問うたが、忠次が否定しなかったため、信長は家康に信康の切腹を要求した。
その報告を受けた家康はやむを得ず切腹を命じ、築山殿は護送中に徳川家家臣によって暗殺された。
信康が切腹させられた理由 その他の説
次は、その他の説について簡潔に解説する。
① 単純に信康と家康と仲が悪く、このままでは反家康派に担がれて大きな内部対立となってしまうため。
② すでに徳川家中の派閥抗争が発生しており、クーデター防止をする必要があったため。
③ 築山殿と信康が本当に武田方と内通しており、それが発覚したため。
④ 信康の素行不良があまりに酷く、家臣団と対立関係になってしまっていたため。
⑤ 信長の嫡子・信忠と比べると、あまりにも信康が優秀で、信長が将来的に邪魔と考えたため。
①から③については、最終的に家康と敵対関係になってクーデターを起こされる可能性があるため、切腹させたという説だ。
④については、信康は武勇に優れていたがカッとなると暴れるきらいがあり、追放された家臣もいたようだ。
信康の気性が荒かったことは『寛政重修諸家譜』『松平記』『三河後風土記』『石川正西聞見集』などに書かれており、信長を軽視することもあったという。
⑤については、かつては通説の一つとされていたが、現在では信忠は優秀だったとされている。
このように多くの説があるが、事実切腹させられているのだから、それに足る何かがあったはずだ。
徳姫の手紙、家康との対立、武田家内通、素行の悪さ、クーデター未遂など全てが事実だった可能性もある。
いずれにせよ、信康が気性の荒い問題児だったことは確かであろう。
参考 :『三河物語』『松平記』他
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