時は慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康は武家の棟梁である征夷大将軍に補任されました。
朝廷から勅使が派遣され、伏見城にいた家康へ将軍宣下がなされます。
今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』より、当日の様子を紹介。
その物々しさから、将軍職の重さと家康の喜びを感じて頂けたらと思います。
目次
一、禁中にて陣儀が行われる
……慶長八年癸卯二月十二日征夷大将軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸頭左中弁光広。弁は小河坊城左中弁俊昌なり。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】慶長8年(1603年)2月12日、朝廷で征夷大将軍の宣下があり、禁中で儀式が行われました。上卿は広橋兼勝(大納言)、奉行職事は烏丸光広(頭左中弁)、弁は小河坊俊昌(城左中弁)が務めます。
一、勅使が伏見城へ
……陣儀終て勧修寺宰相光豊卿 勅使として已一點に伏見城に参向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅(ながえ)。其他大外記官務はじめ諸官人は轎(かご)にのりてまいる。みな束帯なり。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】禁中儀礼が終わると、勅使として勧修寺光豊(かじゅうじ。宰相)が伏見城へ向かいます。雲客は牛車、その他の大外記や官務らは駕籠に乗りました。みんな束帯姿です。
一、勅使が伏見城に到着
……雲客以上は城中玄関にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陽陰頭久脩御身固をつかふまつりて後。紅の御直垂めして午刻南殿に出給ふ。今日参仕の輩。諸大夫以上直垂。諸士は素襖を着す。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】さて、伏見城に到着すると、雲客以上の者は玄関で下車。それより下位の者は第三門で駕籠から下りました。
この時、土御門久脩(陰陽頭)が勅使の警護を務め、紅の直垂姿で昼ごろに現れます。
今日参列した者の服装は、五位以上の諸大夫は直垂、それ以下の諸士は素襖(すおう)を着用していました。
一、将軍宣下のお祝い
……勅使にまづ御対面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事弁みな中段にすゝむ。告使中原職善庭上にすゝみ。正面の階下に於て一揖し。声折して御昇進を唱ふる事二聲。一揖して退く。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】勅使が家康に対面すると、三位以上の公卿たちが将軍宣下のお祝いを申し述べました。続いて上卿と職事、弁らはみな中段に進みます。
告使の中原職善は庭上に進み、正面階下で一礼。声を上げて昇進を二度唱え、また一礼して下がりました。
一、参列する者たち
……次に広橋勧修寺両卿は。上段第二の間の中程に左右にわかれて着座す。奉行職事参仕の弁等は第三の間に左右に別れ座につく。時に壬生官務孝亮広庇に伺候す。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】それから広橋と勧修寺の二人は上段第二の間で左右に分かれて着席します。奉行職事や弁らは第三の間にこれも左右へ着座しました。
この時、官務の壬生孝亮は広庇(ひろびさし)に控えます。
一、征夷大将軍の宣旨
……副使出納左近将監中原職忠征夷大将軍の宣旨を乱箱に入て。小庇の方より持出て官務にさづく。官務これを捧てすゝむ。大澤少将基宥請取て御前に奉る。御拝戴有て宣旨は御座の右に置。基宥乱箱をもちて奥にいる。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】副使の中原職忠(出納、左近将監)は征夷大将軍の宣旨を入れた乱箱を持って官務に渡し、官務はこれを大澤基宥(少将)へ捧げます。大澤基宥はこれを家康に差し出し、家康は受け取った宣旨を座右に置きました。
空になった乱箱は大澤基宥が回収し、奥へと入って行きます。
一、空箱に砂金を入れる
……永井右近大夫直勝その箱に砂金二嚢入て基宥に授く。基宥是を持出で官務にさづく。官務拝戴して退く。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】奥へ進むと、そこには永井直勝(右近大夫)が控えており、大澤基宥の持つ乱箱に砂金二袋を入れて渡しました。
大澤基宥はこれを持ち出して官務に渡し、下がらせます。
一、源氏長者の宣旨
……次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持参し。基宥受取て御前に奉り。箱は基宥とりて奥に入。直勝砂金一嚢を入れ。基宥これを持出で大外記に授け。大外記拝戴して退く。其さま上に同じ。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】続いて、源氏長者(源氏の棟梁)に任じる宣旨を押小路師生(大外記)が持参。大澤基宥がこれを受け取って家康に渡し、空箱を奥に入れます。
その空箱へ永井直勝が一袋の砂金を入れると、大澤基宥から押小路師生へ渡され、それを持って退出しました。
一、宣旨が次々と
……次に官務氏長者の宣旨持出。次に大外記右大臣の宣旨持出。次に大外記官務牛車宣旨持出。次に随身兵仗の宣旨大外記持出。次に淳和装学両院別当の宣旨官務持いづる。其度ごとに乱箱に砂金一嚢づゝ入て賜はる。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】それからも次々と宣旨がもたらされ、そのたびに空箱へ砂金の袋が入れられます。要するにこれは、宣旨料とでも言うべきものですね。
一、砂金のお礼?に太刀を献上
……次に職事弁等座を立。次に上卿 勅使太刀折紙もて拝謁せられ基宥披露し。次に職事弁以下太刀折紙持出で。三の間長押の内にて拝し。大外記以下は太刀を三間の内に置て広庇にて拝し。官務出納少外記史も同じ。次に陣の官人召使等太刀は献ぜず。広縁にて拝して退く。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】宣旨を下し終えると、下位の者から順番に席を立ち、太刀を献上する者もありました。これは砂金のお礼でしょうか。
一、勅使が退出、みんなにお土産
……次に右近大夫直勝。西尾丹後守忠永(寛政重脩譜には忠永此時未だ酒井の家に在て主水と称すとあり。)役送し。兼勝卿に金百両。御紋鞍置馬一疋。光豊卿に金五十両。鞍馬一疋遣はされて後奥に入御あり。次に参仕の官人召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「家康将軍宣下」
【意訳】公家たちが退出すると、徳川家の永井直勝・西尾忠永(丹後守)が彼らをお送りし、広橋兼勝に金百両と鞍置馬一頭を献上。また勧修寺光豊には金五十両と鞍置馬一頭を献上したのでした。
他の者たちには金五百疋ずつ授け、こうして将軍宣下の儀式は終了したと言うことです。
終わりに
……抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども。文屋綿丸。坂上田村麻呂。藤原忠文等は禁中に召宣下有しなり。幕府に 勅使をつかはされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大将家にもとひす。其時は鶴岡八幡宮に 勅使をむかへ。三浦次郎義澄。比企左衛門尉能員。和田三郎宗實。郎従十人甲冑よろひて参りその宣旨をうけとり。幕下西廊にて拝受せられしこそ此儀の権與とはすべけれ。……
※『東照宮御実紀』巻五 慶長八年二月「将軍宣下之先例」
以上、家康が征夷大将軍の宣下を受けるエピソードを紹介してきました。
ちなみに征夷大将軍の宣下を受けるとき、元々は朝廷へ参内していましたが、源頼朝公の時から勅使を迎えるようになったということです。
以来、第3代の徳川家光まで伏見城で将軍宣下を受ける慣習が続いたのでした。
NHK大河ドラマ「どうする家康」ではあっさり終わってしまった将軍宣下のイベントですが、尊敬していた源頼朝公と同じ征夷大将軍になれた家康の喜びを偲ぶよすがとなれば幸いです。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
この記事へのコメントはありません。