大正15年(1926)7月、ひとりの女囚が自ら命を絶った。
彼女の名前は金子文子(かねこ ふみこ)といい、情熱的なアナキスト(無政府主義者…国家のような社会の仕組みを否定する思想の支持者)であった。
文子は無籍者として育ち、周りの大人たちから虐げられながら生きてきた。やがて彼女は権力に縛られることを拒否する反逆者となり、恋人の朴烈(パク・ヨル)とともに大逆罪で死刑宣告を受ける。
まもなく減刑されたが、彼女は獄中で自ら命を絶ち、23年の短い生涯を閉じた。本稿では、金子文子の生涯と、その思想の軌跡を辿る。
無籍者として育ち、虐げられた少女時代

画像 : 金子文子 public domain
明治36年(1903)1月、金子文子は横浜市に生まれた。
父は佐伯文一、母は金子きく。しかし両親は正式な婚姻届を出しておらず、さらに文子の出生届も提出されなかったため、幼少期を無籍のまま過ごすこととなった。
文子の家庭環境は極めて不安定だった。父は定職に就かず、酒に溺れる生活を送りながら家に女性を連れ込むことがあった。
あげくに妻の妹に手を出して、かけ落ちしまう。
母親は母親で家に男性を連れ込むようになり、生活にも困窮し、最終的には山梨の実家に文子を預け、雑貨店の男性のもとへ嫁いでいった。
こうして、9歳で両親に捨てられた文子は、父方の祖母のもとに引き取られることになった。
祖母は、朝鮮・芙江(プガン)に住む在朝日本人の中でも有力な高利貸しであり、娘夫婦(文子の叔母夫妻)の嫁ぎ先である岩下家の実権を握っていた。
娘夫婦には子供がいなかったため、祖母は文子を娘夫婦の養女(跡取り)として育てようとした。
文子は朝鮮へ渡ると小学校へ入学したが、プライドの高い祖母、叔母らに行動を制限される日々を送った。さらに、祖母たちは貧しい人々や朝鮮人に対して差別意識を持っていた。
やがて、文子が彼女たちの望む「上流階級の娘」のようには育たないと判断されると、養女扱いから一転して、家庭内で使用人のような扱いを受けるようになった。
些細なことで厳しく叱責され、氷点下の冬に外へ閉め出されたり、食事を与えられなかったりすることもあったという。
13歳の夏、文子は虐待に耐えかね、命を絶つことを決意した。しかし、川へ飛び込もうとした直前、油蟬の鳴き声が耳に入り、ふと周囲を見渡すと、自然の美しさに気づいた。そして、「違う世界はある、世界は広い」と考え、思いとどまった。
このとき、文子の中には「知識を得たい」「社会の理不尽を知りたい」という強い欲求が芽生えたのである。
その後、大正8年(1919)、文子は16歳の時に祖母たちから追い出されるように、山梨の母親の実家へ送り返されたのだった。
上京して『真の仕事』を探す
朝鮮から帰国した文子は、隣町に住む僧侶の叔父(文子の母の弟)元栄のもとへしばしば通うようになり親しくなった。
しかし、この関係を知った文子の父・佐伯文一は、元栄の寺の財産を狙い、文子と元栄を結婚させようと企てた。父は勝手に元栄との縁談を進めると、浜松の自宅へ文子を連れ帰り、花嫁修行として裁縫学校に通わせることにした。

画像 : 裁縫学校 イメージ public domain
しかし、裁縫が苦手な文子にとって、裁縫学校は苦痛でしかなかった。彼女は「もっと本を読み、もっと知識を得て、自分の人生を切り開きたい」と願っていた。
結局、この結婚話は実現せず、父が自分の利益のためだけに娘を利用しようとしていることにうんざりした文子は、17歳の春、自らの人生を取り戻すために東京へ向かったのである。
東京では、まず母方の大叔父を頼った。しかし、大叔父もまた「女は勉強ではなく結婚をすべきだ」という考えを持っており、文子に学問を続ける道を認めなかった。そのため、彼女はわずか1か月ほどで大叔父の家を出て、自力で生きていくことを決意する。
文子は新聞販売店に住み込みで働きながら、日中は英語と数学を学ぶために専門学校に通い、夜は新聞配達をこなすという生活を送った。
当初、彼女は医師になることを目標にしていたが、過酷な労働と学業の両立は容易ではなく、次第に勉強もままならなくなっていった。
そんな時、文子は苦学生でキリスト教徒の斉藤と出会い、彼の影響でキリスト教に触れることとなった。
斉藤は文子に新しい仕事と住む場所を提供してくれた。
しかし、彼は「愛がすべて」と説くキリスト教徒でありながら、自身の言動に矛盾を抱えていた。文子と関係を持った後、一方的に彼女を見捨てたのである。この出来事を通じて、文子はキリスト教に対する失望を抱くようになった。
その後、彼女は社会主義の思想にも触れる。しかし、それは彼女にとって単なる理論に過ぎなかった。
社会主義者たちは「革命」を掲げるが、その本質は「一つの権力を別の権力に置き換える」ことに過ぎないと文子は考えた。
彼女が求めるものは、根本的に異なる社会のあり方だった。
大正10年(1921)秋、文子は日比谷の『岩崎おでんや』で女給として働きながら、夜は学校に通い続けた。
この頃、彼女は女友達と交流を深める中で、「人間には『これこそが自分の真の仕事だ』と感じるものがあるのではないか」と考えるようになった。そして、自分自身の「真の仕事」を見つけたいと強く願うようになった。
そんなある日、文子は朝鮮人留学生の玄(ヒョン)という社会主義者の友人を通じて、月刊雑誌の校正刷りを手にする。
その中に掲載された力強い詩を読んだ瞬間、彼女はこれまで漠然と探し求めていた何かを見出したように感じた。
その詩の作者こそが、朴烈(パク・ヨル)という青年だった。
恋人であり同志でもある朝鮮人青年とともに活動する

画像 : 朴烈(パク・ヨル)public domain
ある日、文子は鄭の部屋で、彼を訪ねてきた朴烈(パク・ヨル)と初めて顔を合わせた。
朴は質素な身なりをしていたが、堂々とした態度があり、文子はその姿に強く惹かれた。
その後、文子は2人きりで朴と会い、互いの考えなどを話した後で「私はあなたのうちに、私の求めているものを見出しているのです。あなたと一緒に仕事ができたらと思います」と率直に朴に伝えた。
それは文子の求婚の言葉であった。
朴烈は、明治35年(1902年)3月、朝鮮の朝鮮慶尚北道の田舎で生まれた。
普通学校に入学したが、日本の統治下で日本語教育を強要され、学校では天皇への忠誠が求められた。
これに強い反発を抱き、やがて独立運動に関心を持つようになった。
しかし、朝鮮での弾圧が厳しくなる中、植民地に留まっていても活動が制限されると考え、1919年、17歳の時にに日本へ渡った。
大正10年(1921年)11月、朴は『黒濤会』を組織する。この団体は無政府主義や社会主義を掲げる在日朝鮮人の組織であり、日本の警察当局から危険視されていた。その中でも朴は特に危険人物と見なされるようになった。
その頃、朴は爆弾の入手を画策していたともされるが、その計画の実態については明確な証拠が残されていない。
そして、翌大正11年(1922年)2月から3月ごろ、文子は朴と出会い、ほどなくして世田谷池尻で同棲を始めたのである。

画像 : 朴烈に寄りかかる金子文子。予審中に撮影 public domain
同年7月、黒濤会の機関誌『黒濤』を創刊し、アナキズムの思想を広める活動を開始。
9月には神田区の朝鮮基督教青年会館で講演を行い、新潟県で起きた朝鮮人虐殺事件を糾弾した。しかしその後、黒濤会は分裂し、朴烈を中心とするグループは『黒友会』を結成。
さらに文子とともに機関誌『不逞鮮人』を創刊したが、政府の圧力により『太い鮮人』と改題を余儀なくされた。
その後、二人は代々木富ヶ谷の借家へ移り、無政府主義を広めるための集まり『不逞社』を組織する。
彼らは無政府主義に関心の薄い人々にも思想を広めることを目指し、機関誌の発行や集会の開催を行った。部屋の壁には赤い大きなハートが描かれ、その中には『反逆』と書かれていたという。
朴烈はそれまでにも何度か爆弾の入手を試みたが、具体的な計画がどこまで進んでいたのかは不明である。しかし、彼の活動は警察に監視され続け、二人の思想と行動は次第に国家権力から危険視されるようになっていった。
震災後、恋人とともに身柄を拘束されるも、自分の思想を守り抜く

画像 : 関東大震災(寿小学校ヨリ展望)public domain
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生すると、そのパニックの中で「朝鮮人が暴動を起こした」という流言が広まり、朝鮮人迫害が始まった。
この混乱に乗じて、政府はアナキストや社会主義者といった反政府的思想を持つ人物を、一斉に取り締まる方針を打ち出した。
そして震災発生から2日後の9月3日、文子と朴は検束された。
天皇制に批判的な立場を取っていた朴烈は、政府にとって格好の標的となった。さらに、朴が爆弾を入手しようと計画していたことが捜査によって明らかになり、文子とともに治安警察法違反容疑で起訴された。
文子は訊問の中で、朴が皇爆弾計画を構想していたことを供述した。また、彼女自身も天皇制が「神聖不可侵」とされることで権力の正当化に利用されていると批判し、国家そのものの仕組みを否定した。
そのため、二人は爆発物取締罰則違反容疑で追起訴され、さらに大正13年(1924年)9月には大逆罪で正式に起訴された。
文子は「人間は生まれながらに平等であり、そこに上下関係をつくること自体が間違っている」と主張し、法廷でもその思想を貫いた。
そして、大正15年(1926年)3月25日、二人に死刑判決が下された。
しかし、文子にとって、朴とともに死ぬことは自らの思想を証明することであり、本望であった。
ところが、判決からわずか10日後の4月5日、二人は天皇の名による恩赦を受け、無期懲役に減刑された。この恩赦に対し、朴烈は激しく抗議し、減刑の拒否を宣言したが、政府はこれを認めなかった。
その後、文子は東京の市ヶ谷刑務所から宇都宮刑務所栃木支所へ移送された。そして1926年7月23日、独房の中で縊死し、23年の短い生涯を終えたのである。
その死は「自殺」と発表されたが、獄中の待遇や精神的圧迫が影響した可能性が指摘されている。
参考 :
金子文子「何が私をこうさせたか」岩波書店
小杉みのり「時代をきりひらいた日本の女たち」岩崎書店
ブレイディみかこ「女たちのテロル」岩波書店
文 / 草の実堂編集部
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