昭和初期、日本映画界において清楚で知的な魅力を放ち、「永遠の乙女」と称された女優がいた。
彼女の名は、及川道子。
東京・渋谷に生まれ、敬虔なクリスチャンとして知られた彼女は、まれに見る清楚なキャラクターを創造した。
しかしその華やかな活躍の陰では、結核という病との闘い、そして最愛の男性の死という災難に見舞われていたのだった。
今回は、薄幸の清純スターとして記憶される及川道子の生涯をたどる。
スカウトがきっかけで舞台から銀幕へ

画像 : 及川道子(1920年頃)public domain
1911年(明治44年)10月、及川道子は東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区)に生まれた。
父・及川鼎寿(かなえ)は若くして社会運動に関わったのち、出版社・春秋社に勤務した人物である。
両親はいずれも敬虔なキリスト教徒で、道子も幼少期から教会生活に親しんだ。
1924年(大正13年)、東京音楽学校一橋分教場声楽科に在学中の道子は、新劇運動の指導者である小山内薫(おさない かおる)の紹介により築地小劇場に入団する。

画像 : 小山内薫(1881 〜 1928)public domain
初舞台は、同年12月の第18回公演『そら豆の煮えるまで』で、少年役に抜擢された。
以後『青い鳥』『三人姉妹』『埋もれた春』『国姓爺合戦』などに出演し、清楚で明るい舞台姿が注目を集めた。
彼女は当時としては珍しいアマチュア出身の新劇女優であり、その純粋な演技は観客や劇評家に高く評価された。

画像 : 当時の築地小劇場 public domain
1927年(昭和2年)に東京音楽学校を修了後、本郷の第一外国語学校英語専科で学びながら舞台活動を続けたが、1928年に築地小劇場が分裂すると、新築地劇団に参加。翌1929年7月に退団した。
同年9月、映画評論家・内田岐三雄の推薦で松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏監督の『不壊の白珠』で映画デビューを果たす。共演は八雲恵美子と高田稔。
以後、『恋愛第一課』『真実の愛』『抱擁(ラムブラス)』など清水作品に立て続けに出演し、知的で洗練された新しいタイプの女優として注目を浴びた。
1930年(昭和5年)の五所平之助監督『女よ!君の名を汚す勿れ』では、母の不倫を知って命を絶つ娘役を熱演し、松竹を代表する若手スターの一人に数えられるようになった。
知的で清楚な美貌で人気を博すも、不幸が続く

画像 : 『港の日本娘(1933年)清水宏監督作品。松竹蒲田撮影所にて撮影。及川道子(左)と井上雪子(右)public domain
松竹蒲田における及川道子の登場は、当時の日本映画に新鮮な感覚をもたらした。
彼女は単なる美貌の女優ではなく、知性と気品を兼ね備えた存在として注目された。
敬虔なクリスチャンとしての内面がにじむ清楚な雰囲気は、それまでの銀幕にはなかったものであり「永遠の乙女」と称され、特にインテリ階層から絶大な人気を得ていた。
しかし、輝かしい活躍の裏で、道子は若くして病に苦しんでいた。
幼少期に肋膜を患い、のちに結核を再発させた彼女は、1930年頃から撮影と療養を繰り返す日々が続くようになる。
また、道子は両親をはじめ、多くの弟妹の生活をみなくてはならなかった。
ひとりで苦しい一家の生活を背負う彼女は、スターでありながら借家住まいであり、青山や渋谷を転々とした。
そのような中でも、道子への求婚者は後をたたなかったといい、道子のことをいつまでも待つという男は何人もいたという。
しかし、道子には密かに想っている男性がいた。
作家・渡辺温(わたなべ おん)である。

画像 : 渡辺温(わたなべ おん、1902年8月26日 – 1930年2月10日)public domain
道子の父親の店の客だった渡辺は、道子が少女のころから面識があり、やがて2人は相思相愛の仲になった。
渡辺は、探偵小説誌『新青年』で活躍した作家・横溝正史(よこみぞ せいし)らとともに、推理や幻想を題材にした創作活動を進めていた。
当時すでに文壇で注目を集めつつあったが、1930年(昭和5年)2月、谷崎潤一郎のもとへ原稿を受け取りに訪れた帰途、阪急電鉄・夙川駅近くの踏切で乗車していたタクシーが貨物列車と衝突し、27歳で急逝してしまった。
渡辺の作風と感受性をこよなく愛していた道子は、悲しみの底に突き落とされたのだった。
のちに彼女は、夢の中で再び渡辺と語り合う情景を詳細に記しており、その文面からは、彼への敬慕と芸術への志の両方が感じ取れる。
病と闘い続けた清純スターの最期
1931年(昭和6年)、道子は清水宏監督『有憂華』の出演が決まっていたが、結核の再発により降板し、花岡菊子が代役を務めた。
島津保次郎監督の『生活線ABC』でも田中絹代に交代を余儀なくされ、次第に病が活動を制約していった。
しかし、同年に出演した島津監督『野に叫ぶもの』二部作では、主演の鈴木伝明の妹役として健気な演技を見せ、観客から高い評価を受けている。
1932年(昭和7年)には再びカメラの前に立ち、清水宏監督『愛の防風林』で貞淑な妻を演じた。
この作品をきっかけに彼女は蒲田の「知性派スター」としての地位を確立し、1933年(昭和8年)には幹部女優に昇進した。
だが健康状態は好転せず、撮影と療養を繰り返す日々が続いた。

画像 : 映画『港の日本娘』(1933年、清水宏監督)より。港町を舞台に、江川宇礼雄(うれお)と及川道子が兄妹役で共演した一場面 public domain
清水宏監督の『眠れ母の胸に』(1933年)では主題歌を独唱し、声楽の素養を生かした名演を残した。
さらに同年6月の『港の日本娘』では黒川砂子役を演じ、港町を舞台にした青春群像劇の中で清楚な存在感を示した。
その後も『頬を寄すれば』や『愛撫』などに出演し、知性派女優として確かな地位を築いたが、ほどなく再び体調を崩し、長期療養を余儀なくされた。
それでも、1936年(昭和11年)に島津保次郎監督『家族会議』のヒロイン・仁礼泰子を病を押して演じ切った。
この作品が彼女の最後の出演となり、翌1937年に松竹を退社。
翌年の1938年(昭和13年)9月30日、結核のため26歳で世を去った。
臨終の際には「私は正しい人間の人生を送ってきたから……」「私のためではなく、みんなのために祈ってください」と語ったと伝えられている。
没後半世紀を経た1989年(平成元年)、『週刊文春』編集部が行った読者アンケート「わが青春のアイドル・女優ベスト150」では、戦前の名女優の一人として及川道子の名が再び挙げられた。
順位の詳細は不明ながら、すでに没後50年を経ても彼女を記憶する声が寄せられたことは、彼女がいかに深く観客の心に残っていたかを物語っている。
静かな信仰心と誠実な人柄、そして病と闘いながらも芸術に身を捧げたその生涯は、昭和初期の映画界における「薄幸の清純スター」として今も語り継がれている。
参考 :
大島幸助「銀座フルーツパーラーのお客さん」文園社
虫明亜呂無「女の足指と電話機」清流出版
文 / 草の実堂編集部
























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