本人は嫌った「マレーの虎」
山下奉文(やましたともゆき)は、太平洋戦争の初頭においてイギリスの植民地であったマレーとシンガポールを陥落させた大日本帝国陸軍の軍人です。
その戦いぶりから、当時の日本では「マレーの虎」の異名で呼ばれ、畏怖と敬意の念をもって知られた人物となりました。
しかし山下本人はその異名で呼ばれることを良しとしなかったと伝えられています。ひとつには虎という動物そのものに好意的な印象をもっていなかったとも言われていますが、そこには開戦後すぐのマレー作戦の成功から手放しでの称賛や、英雄視される風潮に危惧を抱いていたのではないかと思われます。
二・二六事件の影響
山下の軍人としての人生は決して順風満帆なものではありませんでした。それには当時の陸軍内部の権力争いが影響を与えていたものと思われます。
1934年(昭和9年)に陸軍少将となっていた山下は、陸軍内部で皇道派の幹部と目されていました。この皇道派は1936年(昭和11年)2月に二・二六事件を起こした青年将校らが所属していた派閥でした。
これと敵対していたのが東条英機らの統制派であり、二・二六事件のクーデターが失敗に終わった後、山下はこの同調者と見られて、昭和天皇やその周りの人物から不興を買ったとされています。
このため山下は、朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長への左遷人事を余儀なくされたと言われています。
ドイツ視察訪問
山下はその後の日中戦争の開始もあってか、1937年(昭和12年)11月には陸軍中将に昇進、1939年(昭和14年)9月に第4師団長、1940年(昭和15年)7月に陸軍航空総監兼陸軍航空本部長と、陸軍の要職に復帰しました。
更に山下は、1941年(昭和16年)1月から4ヶ月に渡って、当時同盟国であったドイツへの視察団団長を務めて訪独しました。
このときにドイツの兵器の調査・情報を収集行うと同時にアドルフ・ヒトラーや、戦車用兵の専門家として著名であったハインツ・グデーリアンとの会見を行いました。
マレー作戦
山下は、1941年11月に第25軍司令官に就任、マレー作戦の陣頭指揮を執ることになりました。
この作戦は日本軍による南方侵攻の初動作戦であり、1941年12月8日午前1時30分(日本時間)に指揮下の第18師団がイギリス領コタバルへの上陸を行ったことで開始されました。
山下の第25軍はイギリス軍を各所で破って進撃を続け、マレー半島を縦断してこれを制圧していきました。
続くシンガポール要塞をの攻略では、イギリス軍司令官のアーサー・パーシバル陸軍中将に対し、山下が厳しい口調で「イエスかノーか」と詰め寄ったとの巷説がありますが、これは誇張された逸話のようです。
山下はそのときの通訳が要を得ない状態であったことに対して、その通訳に向かって「イエスかノーかだけを聞け」と少し厳しい口調で注意しました。
このときの発言が、さも敵将に向けたものであったかのように伝えられたというのが真相のようです。
山下本人も誇張されてしまったことをかなり気にしていたそうで、日記にも残しています。
戦犯としての刑死
山下はその後は満州の司令官に転じて、1943年(昭和18年)2月には陸軍大将に昇進しています。
この後1944年(昭和19年)9月にフィリピンを防衛するために再編成された第14方面軍司令官に就任し、この地フィリピンで1945年(昭和20年)9月1日に投降・降伏しました。
山下はすぐに戦犯として、フィリピンのマニラにおいて軍事裁判にかけられました。1945年(昭和20年)の10月29日には始まった審理では、シンガポールでの華僑虐殺、マニラ大虐殺などの戦争犯罪の責任を問われて、12月7日に死刑判決を宣告されました。
刑の執行は翌 1946年(昭和21年)2月23日行われました。
このとき山下は軍服の着用も許されない囚人服姿での絞首刑という、凡そ軍人の名誉を重んじない方法で処刑されたと伝えられています。
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