統帥権の解釈
「統帥権干犯問題」(とうすいけんかんぱんもんだい)は、1930年(昭和5年)4月末に開催された帝国議会衆議院本会議で、当時野党であった政友会の犬養毅総裁と鳩山一郎とが政府を非難する発言を行ったことで表面化した問題です。
以後加速していく軍国主義の台頭に繋がるこの問題を、政治家であった犬養と鳩山が政争の道具として取り上げたことは、政治家としての資質を疑われてしかるべき行為だったのではないかと思われます。
そもそも「統帥権」とは、大日本帝国憲法下における陸海軍を束ねる権限のことを指していました。大日本帝国憲法では、陸海軍は政府の下ではなく天皇直属の機関と位置づけられており、このことから「統帥権」は天皇に与えられた独立した権限と解釈されていました。
政友会の立場
犬養は後に自らが内閣総理大臣となった際には軍縮をしようとしたことから、五・一五事件で決起した青年将校に殺害され、戦前の日本の政党政治が終結を迎える結果を招きました。
この事件で軍人から殺害されたこともあって、犬養は軍部の犠牲者との印象がありますが、政府批判のためにかつて自らが軍部の片棒を担いだ因果が引き起こした、自業自得と言える最期でした。
同じく鳩山一郎も、戦後総理大臣就任を目前にしながら、GHQからこの時の行動を軍部に与したものとされて一旦公職追放の対象となりました。
彼らがこの問題を提議したのは、政友会が同年の第17回衆議院議員総選挙で大敗したことや、在郷軍人会が有力な支持母体と化したことなどが指摘されています。
ロンドン海軍軍縮会議
列強各国は第一次世界大戦の疲弊と反省から、一時的ではありつつも軍縮を進めワシントン海軍軍縮条約での主力艦の制限を行うと、1930年(昭和5年)には補助艦についての制限を科すロンドン海軍軍縮条約の調印が進められていきました。
このロンドン海軍軍縮条約会議には、財部海軍大臣が出席し、日本の補助艦の総トン数を対英米の69.75%とする内容での妥結を政府へ打診していました。同年の3月27日に濱口首相はその内容の裁可を昭和天皇から得て、条約を調印する運びとなっていました。
しかし4月2日に加藤海軍軍令部長が直接天皇へ謁見し、海軍軍令部として補助艦は対英米比70%でなければ承知できないと表明しました。これは海軍内で条約に賛成する勢力と反対する勢力との主導権争いでもありました。
条約自体は、濱口首相の決断で反対する海軍軍令部を制止して何とか調印されましたが、海軍内では反対派が主導権を握り、反対派を粛正する人事が行われました。
濱口首相の正論
条約への反対派や犬養・鳩山らは大日本国憲法には、陸海軍の兵力を決定するのは天皇とされており、軍縮会議で政府が兵力の数量を決定したのは憲法に反すると主張しました。
濱口首相は議会において「実行上、内閣は統帥権を委任された立場にあり、軍縮条約を結ぶことに問題はない」として、統帥権の干犯には当たらないとこを明言しました。
しかし、濱口首相の正論は国粋主義団体や海軍の条約反対派からの反発を強め、後日、国粋主義団体員の暴漢からの襲撃を受けた濱口首相は、その時の怪我が元で他界することになりました。
軍部の台頭
「統帥権干犯問題」は、本来大日本国憲法の有した不備が原因でしたが、こうして表面化する以前は元老制度によって統制されており、先鋭化することはなかった問題でした。
しかし、時代は昭和へと突入し元老の大半が世を去ると同時に、政党内閣の威光もまた衰退したことで軍部の台頭を許す結果を招きました。
結果、この問題の発生以降、軍は内閣からの干渉を受けないという風潮が黙認されることに繋がったのです。
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