太平洋戦争においては、日本側にも連合軍側にも多数の死傷者が出た。
この戦争において、とりわけ「資源」や「資材」の重要性が改めて認識されたところであったわけだが、日本はもとより資源の少ない国家である。「戦艦があるのに燃料がない、飛行機を製造したくとも金属などの資源がない」といった状況は、当時の軍人にとって悩みの種であっただろう。
そんな大戦末期の日本において、資材を節約しつつ相手に損害を与えるべく様々な兵器が考案された。
それらの多くは実戦配備される前に終戦を迎えたものであるが、果たして日本では大戦末期にどのような兵器が考案されたのであろうか。
この記事では、当時の「追い詰められた日本」の兵器について解説しよう。
目次
敗北間近の国家の「最後の奮闘」は世界中にある
戦争が激化すると、追い詰められた国家では資材の不足や工場の稼働率低下などが発生する。
これにより近代兵器が調達できなくなる場合、身近にあるもの、手軽に調達できるものを「兵器」として動員したり、突拍子もない発想の兵器が生まれることがある。
日本においては、太平洋戦争末期に実際に訓練が行われた「竹槍」が有名であるが、このような状況はなにも日本に限ったことではない。
たとえば第二次世界大戦中のイギリスでは、ドイツ軍の上陸に備えて後方部隊に対して「ホーム・ガード・パイク」と呼ばれる槍が支給されたことがある。
こうしたエピソードは面白おかしく解説されることもあるが、実際のところ大戦末期の日本ではどのような兵器が考案されたのか、そしてそれにはどのような事情が込められていたのか、ここにその例をいくつか挙げてみよう。
ある意味「最強のステルス機」!?タ号試作特殊攻撃機
「タ号試作特殊攻撃機」は、単純に「タ号」とも呼ばれる特殊攻撃機(航空機)である。
この「タ号」の「タ」という字は「竹槍」に因んでいるという。もちろん竹製というわけではない。竹槍に因んだのは「本土決戦用の特殊兵器という位置づけからだろう」と思われがちなのだが、実のところ「タ号」は竹製ではなく木製である。
バリエーションはあるが、木製の骨組みもしくは鋼製の骨組みと木製の合板によって作られている。金属の使用を極力抑えるということと「とにかく飛べればよい」という考えだったのであろう。もちろんこの機体ではまともな空中機動など望むべくもなく、「タ号」は爆弾を装備して体当たり・自爆するための特攻兵器の一種として開発されたものであった。
ちなみに全木製の飛行機は「レーダーに映りにくい」という特性がある。この意味でタ号を評価するとするならば、現代風に言えば「ステルス機」と位置づけられなくもない。
しかしながら「タ号」は試作段階でおよそ150〜200km/hの速度と言われている。もし実戦に投入されていれば、たとえ全くレーダーに映らなかったとしても、地上からの対空砲撃で容易く撃墜されてしまった可能性が高いだろう。
なお、実はこの「レーダーに映りにくい木製飛行機」の実例として、イギリスの「デ・ハビランド・モスキート」という航空機がある。
この航空機はなんと最大速度 667.9 km/h 高度8,535 で、B29や零式戦闘機よりも高速で飛ぶことができる航空機であり、こちらは実戦でも活躍している。
まさに特攻「刺突爆雷/伏龍」
自らの生命を投げ出して敵に攻撃する「特攻」という戦術は、後年の日本軍に多く見られた。しかしそのうち「特攻専用の兵器」というものも作られ始める。
それが「桜花」や「震洋」、「回天」など、体当たりして自爆攻撃を敢行するための兵器だ。そうした兵器ともまた若干趣を異にするのが「伏龍」という兵器である。
これが先の特攻兵器と異なる点は「兵士が乗り込むのではなく手に持つ兵器である」という点だ。かといって銃や擲弾筒とも異なる。
この伏龍は水中から敵艦艇を刺突する「槍」のような兵器で、棒の先には船に大損害を与える「機雷」がある。これを敵の上陸用舟艇に突きこんで爆発させるという兵器だった。発想としては爆薬を抱えて敵戦車の下に潜り込む「体当たり攻撃」に似ているが、伏龍が使用される舞台は海中であった。
海中での行動を可能にするために当時使用された潜水服は、「鼻で息を吸い口から吐かなければならない」「呼吸方法を間違えると卒倒し失神する」「呼吸回路に海水が入ると、高温化した強アルカリ性薬品(苛性ソーダ)が潜水服の兜(顔部分)内に流れ込む」などの問題があった。
さらにそれらの諸問題をクリアして首尾よく海中に人員を配置できたとしても、米軍の上陸前の準備砲撃の弾薬が海中で炸裂しただけでも、伏龍の人員は水圧によって駆逐されてしまったであろう。
この兵器は正式に展開される前に終戦を迎えたので訓練中の殉職者を出すだけにとどまったが、もし実戦配備されていたならば悲惨な結果を招いていただろう。
実は着弾に成功していた「風船爆弾」
「風船爆弾」という名称だけを見ると、いかにも追い詰められた国家が「風まかせ、運否天賦で爆弾を風船に託した」かのように思われるが、実は必ずしもそうではない。
日本の風船爆弾の研究はすでに1933年にその着想が生まれていたとされる。1939年には小型の気球爆弾の研究命令が関東軍・陸軍によって出されている。
気球爆弾は太平洋の偏西風を利用して、風船(正しくは「気球」)に装着した爆弾によってアメリカ本土を爆撃し、アメリカ国内の心理的動揺を狙うという目的の兵器であった。
和紙とコンニャク糊という、およそ兵器とは無関係に思える物資によって生み出されたこの風船爆弾は、その実およそ9300発が放たれ、そのうちアメリカ本土にはなんと1000発も到達したとされる。(285発とする記録もある。)
戦果としては、ピクニック中の民間人6名が風船爆弾の不発弾に触れて爆死したほか、プルトニウム製造工場の送電線に触れて停電を引き起こしたなど、軍事兵器としては僅少であった。しかしながらアメリカ国内では風船爆弾の存在が国民の動揺を生み出したため、風船爆弾はその役目を大いに果たしたといえよう。
ちなみに、このように大陸をまたいで攻撃する兵器は、今日では「大陸間弾道弾(ICBM)」などがその代表であるが、世界で初めて大陸をまたいだ兵器はこの風船爆弾であるという。
アメリカ陸軍は、この風船爆弾に生物兵器が搭載されることを危惧したという。
国民武装として作られた「簡易小銃」
戦艦大和の喪失、呉軍港空襲などによっていよいよ日本は追い詰められた。このとき軍が声高に主張したのは「本土決戦」であった。
すなわち、日本本土を戦場として上陸してくる連合軍を食い止めることを企図したものだった。もちろん日本本土まで連合軍が上陸してくるという状況においては、身の回りのあらゆるものが「武器」として動員されなければならないほどに追い込まれた状況を示している。潤沢な装備や弾薬など望むべくもなかったわけである。
そんな中「簡易小銃」という呼び名で設計された小銃がある。
実のところ「簡易小銃」と呼ばれるこの兵器の詳細は明確にはわかっていない。しかし最低限の資源をもって、とにかく「引き金を引いて弾が出ればよい」という思想であったろうことは容易に想像ができる。
「簡易小銃」という銃器として設計・製造されたものももちろんあったが、骨董品扱いで眠っていたような、黒色火薬を使う「火縄銃」すらも「簡易小銃」という名前で動員されたという説もある。
作りは非常に簡素で部品点数が少なく、木製の本体に金属製の銃身とボルト、そしてトリガーというものだった。
ちなみに旧日本軍兵器の愛好家の一部では、この「簡易小銃」の再現を試みる者もいる。
国民簡易小銃/簡易小銃
大戦末期、日本は資源不足に悩まれ、資源を最低限のみ使用し、生産性を向上させた99式短小銃後期型を作り上げた。だが、本土侵攻が現実的な物になって来ると本土防衛部隊にもっと素早く支給する為に簡易小銃達が作られた。
7mmや8mmを使うのもあれば、黒色火薬を使うのもある pic.twitter.com/yHNO2FIhNK
— Kai0627 (@kai0627ca) July 25, 2020
おわりに
戦争は軍人のみならず民間人にも被害が及ぶ。
そして第一次大戦のころから明確になった「総動員」体制は、軍のみならず民間の施設、たとえば工場や駅、資源地の施設までもが攻撃の対象となる結果を招いた。
古代の戦争のように一振りの槍や刀で戦える時代ではなかったわけであるが、それでもなんとか戦争を継続し敵方に被害を与えるために、物資の欠乏という絶望的な状況の中で考案された兵器というものはそれだけでドラマチックなものだ。
それがたとえ人に危害を与えるためのものであったにしろ、それを真剣に考案していたということを考えると当時の人々の執念がうかがえるものだといえよう。
もっとも、ここに紹介した兵器の多くが実戦で使われることがなかったことは、不幸中の幸いと言うほかない。
跨いだのは太平洋であって、日本から東に向けての「大陸を跨いだ攻撃」なら着弾地点はヨーロッパになるのでは…