大正&昭和

田中角栄の凄いエピソード 【人心掌握術、お金の使い方】

金権政治の象徴」と呼ばれ、ロッキード事件後も無所属衆議院議員ながら政界に大きな影響力を維持し続け「闇将軍」とまで称された男。

田中角栄(たなかかくえい/1918年(大正7年)5月4日 – 1993年(平成5年)12月16日)は没後、長いこと注目されることはなくなった。

しかし近年、汚名返上、名誉回復の機運が高まっている。きっかけは石原慎太郎の小説『天才』(幻冬舎、2016年1月刊)がベストセラーになったことである。田中のモノローグの形で綴られた異色の自伝的小説だ。

なにかと「金と政治」が問題になる中、なぜ国民は田中の魅力を知りたがるのか?

破天荒な政治家、田中角栄の逸話と魅力について調べてみた。

政治家・田中角栄

田中角栄の凄いエピソード

※田中角栄 public domain

田中は、1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった第23回総選挙において初当選する。ここから長い政治家人生が始まった。我々が知る「総理大臣・田中角栄」の在任期間は、1972年(昭和47年)7月6日ー1974年(昭和49年)12月9日までと、さほど長くはない。

時代的にも読者の多くが、生前の田中をリアルタイムで知る人は少ないだろう。私だって、覚えているのはロッキード事件に絡む裁判やら、田中が脳梗塞で倒れたニュースなどをぼんやり覚えているくらいだ。それでも、田中には何か惹かれるものがある。

もちろん、政治家としては表と裏、功と罪を持ち合わせた人物であったことは素人の私でも分かるが、そのネガティブなイメージを打ち消して余りあるほどのカリスマ性を持っていた。その良い例が、石原慎太郎が田中を『天才』の名で持ち上げたことだ。

石原は国会議員時代には、田中の金権選挙を批判。中華民国(台湾)と国交断絶し、中華人民共和国と国交を結ぶ『日中国交正常化』に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成したほどだった。

当時の田中にしてみれば、石原は「うるさい若造」であり、石原は田中批判の急先鋒であった。

その石原ですら、後年になり田中の業績を見直した小説を出したことが、センセーショナルだったのである。

大臣時代

田中角栄
※旧大蔵省庁舎(現・財務省庁舎)

田中は昭和39年、44歳で大蔵大臣(現・財務大臣)に就任すると、大蔵省の幹部を前にして異例の挨拶をした。

「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上」

大臣室のドアはいつも開かれており、有言実行の政治家として官僚の心を掴んだ。
実際、大臣は数年で入れ替わるがほとんどの官僚は在籍する省庁から異動することはない。実際に国を動かすのは官僚の力であるということを知る田中は、巧みな官僚操縦術を見せる稀有な政治家であった。

なお、この演説で田中は「小学校高等科卒業である」として、高等教育を受けていないことをアピールしているが、高等小学校の就学学齢は10歳(入学時)から14歳(修了時点)までなので、現在の中学生に相当する、よく「最終学歴は小学生」と言われるが、それは間違いである。

大蔵大臣以前の郵政大臣時代には、全国の民放テレビ各社の免許交付を行った。

国会は現在のキー局ほどの数社だけ許可すればよいという姿勢だったが、田中は34社・36局の一括免許交付に踏み切った。実際の申請はもっと多かったが、地域により放送局が重複してしまうところは、統合やカットをして必要な放送局を絞ったのである。

これに野党は反発するが、田中は「(1957年から)今後15年くらいでテレビジョン受信機は1,500万台を越えると見込まれます」と答弁する。いざ、全国のテレビ局が開局するとテレビ受信機の需要が爆発的に増えた。

金の使い方

田中角栄の凄いエピソード

田中のエピソードのなかで、にまつわるエピソードは特に多い。
金の使い方に対する大胆さ・豪快さ、その中にも相手の心を動かす使い方を心得ていた。

田中派の一回生議員が女性問題で困り、解決のために多額の金銭が必要となってしまった。何とか金を用意するがどうしても100万円(現在の価値では3倍以上)足りない。やむなく田中に100万円の借金を申し込んだ。話半分まで聞いていた田中は「わかった。すぐに金を取りに来なさい」と一言。急いで事務所に向かうと田中は不在だったが、議員は留守番の秘書から大きな書類袋を渡された。中身を見るとなんと300万円が入っており、そして田中の筆による一枚のメモが入っていた。

トラブルは以下のように必ず解決しなさい。
一、まず100万円で問題にケリをつけろ。
二、次の100万円でお前の不始末で苦労したまわりの人たちに、飯を奢るなど、必ずお礼をすること。
三、次の100万円は万一の場合のために持っておくように。
四、以上これらの金の返済は無用である。

その後、田中派内で竹下登の創政会の旗揚げ問題がクローズアップされた時でも、助けられた議員はビクとも動かなかった。あの時の300万円の一件で、田中という人物に殉じるハラを固めたという。

同時に、金の渡し方にも田中流の持論があった。

金を渡すときは細心の注意を払い、相手によってプライドをくすぐり、あるいはプライドを逆なでしない枕詞を使用し、賄賂と取られないように細心の注意を払って渡していた。

政治家に対しては「お金はいくらあっても邪魔になりませんから」「資金はあると思いますが、まげて収めてください」「党のため、国のため、あなたには当選してもらわなくてはなりません」等と言って渡す。

官僚に対しては「このくらいの金で君は動く男じゃないだろう? 俺の気持ちだ!」「俺だって見返りを要求するほど愚かな男じゃない」等。

また料亭で働く人々に対しては女将に「これを皆さんにお願いいたします」など徹底的に腐心してプライドを傷つけず渡していた。
また、秘書に金を届けさせる際にも、「こちらが貸してやるのではなく、借りてもらう心構えで渡すように」と指示している。

派閥を超えて

田中角栄の凄いエピソード

田中の金の使い方の凄さは身内にだけにとどまらない。

あるとき、派閥も違い田中ともほぼ面識のない議員が資金繰りに困った。仕方なく、田中の事務所へ出向き300万円の借金を申し込むと、田中はその日のうちに金を用意し、「困ったときはお互い様だ。この金は返さなくていい。俺が困ったとき頼む」と言って、その議員に紙袋を渡した。後でその議員が紙袋の中を確認すると、申し込んだ額よりも多い500万円が入っていた。実は、その議員は田中に遠慮して、借金を申し込む際の金額を300万円としていたものの、実際には500万円を用意しなければならない状況であり、彼は田中の機転によって窮状を救われる形となった。田中は、わざわざ派閥の違う自分にまで助けを求めにくるほどだから、よほど追い詰められているのだろうと察していたのだ。その議員は感涙して田中に忠誠を誓った。

また、福田派に属していた反田中派の議員が入院した際、真っ先にお見舞いに訪れたのは田中で、挨拶もそこそこに議員の足元に紙袋を差込み帰った。次に訪れたのは派閥のボスである福田赳夫だったが、一通りお見舞いの言葉を述べると「こんな時、不自由するだろう。ほんの心づもりだ」と言って白い封筒を差し出した。しかし、相手が派閥のボスである手前、議員は礼儀として遠慮すると、福田は封筒を懐に戻してしまった。

その後、田中の紙袋の中身を見ると驚くことに300万円も入っていたのだ。この議員は以後も福田派に所属していたものの、ピンチの時は党派を超えて田中を支えた。

人を知る

田中角栄の凄いエピソード

東京・目白に邸宅を構えていた田中のもとには多くの客が訪れた。毎朝7時から9時頃までの2時間、1組3分、毎日40組、次々と訪問客たちの陳情を受ける。

田中は、頭の回転がよく、ポイントを素早くつかみ、次々と指示や助言を与えるのであろう。その様は、まるで腕利きで評判のいい医者の往診のようであった。できることは「わかった」と言う。「わかった」というのは、陳情を理解したということではなく、その陳情を引き受けた、対応可能である、という意味である。

田中派の参議院議員には、ほとんどの省庁の官僚を引き入れていた。田中派が「総合病院」と呼ばれたのは、そのせいである。彼らの中で誰の力を使えばできるかを瞬時に判断し、「わかった」と伝える。ただし、すぐに引き受けられない時は「1週間待て」と間を置いた。

逆にできないことは、はっきり「できない」と言う。物事を曖味にし、いつまでも結論をズルズルと引っ張り、相手を生殺しにするような真似はしない。

週末ともなれば、選挙区の市民がバスをチャーターして田中低を訪れたが、田中は自腹で食事を用意しては「ばあちゃん元気だったか?」などと声を掛けながら酒宴の席を回ったという。

また、官僚とすれ違ったときなどは即座に声を掛けていたが、どうしても思い出せない時は「あなた誰だっけ」と聞き、相手が苗字で返すと「そうじゃない。苗字は知っているが、名前を聞いているんだ」と言っていた。

まさに人身掌握術の天才でもあった。

最後に

石原慎太郎が田中を政界の表舞台から引きずり落とした後のことである。

石原がテニスをしていて、休憩のためにテラス席に向かったら、田中ととある議員が話をしていた。どうやら話は終わったらしく、その議員が席を立つと田中は石原に気付く。石原にしてみれば、心中穏やかではない。
しかし、田中は笑いながら「よう、石原君じゃないか。こっちへきて話でもしよう」と気軽に声を掛けてきたのだ。

これには石原も負けを悟った。そんなこともあってだろう。後に石原は、田中の功績を讃えることになる。

今回は田中の逸話を追う話である。ここで彼の政治家としての功罪を問うつもりはない。しかし、人間として、政治家として、ここまで器の大きい男は今も現われていない。

 

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草の実堂編集部

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