大正&昭和

「お好み焼き屋」はかつて男女が密会する怪しい場所だった

お好み焼き屋

お好み焼きイメージ画像 wiki c 

現在日本全国どこにでもあるお好み焼き屋。

地域によっても形態は様々であり、「関西風お好み焼き」「広島風お好み焼き」「べた焼き」「遠州焼き」など、色々な様式や具材のお好み焼きが存在している。

もちろんお好み焼きにもルーツがあり、一番古い記録では千利休が好んだ「麩の焼き : ふのやき」がある。ただしこれはあくまで「粉物」としての記録であり、現在のお好み焼きからはかけ離れたものとされている。

お好み焼きのルーツ

現在の形態にもっとも近いルーツは、大正~昭和初期に東京中心に流行した「どんどん焼き」である。

「どんどん焼き」は主に屋台や縁日などで食べられていて、大正7年の読売新聞朝刊には「どんどん焼き」についての記事が掲載された。しかし当時の屋台のお品書きでは既に「お好み焼き」という名称も使われ始めていたようである。

作家の池波正太郎は、少年時代に浅草で「どんどん焼き」をたくさん食べたことを多くの著作に残している。

そしていよいよ本題であるが、東京で屋台を中心に流行していた「お好み焼き屋」が、銀座の裏通りで店舗を構えだしたのである。

お好み焼き屋

イメージ画像 : wiki c S_e_i 

そしてその銀座裏のお好み焼き屋は、「飲食を口実にして男女に逢瀬の場を提供する場所」であり、昭和6~7頃になんと風俗上の理由で摘発されている。

現在で言う、出会い喫茶や相席居酒屋のような店だったのである。

民俗学者・池田彌三郎は、著作「私の食物誌」に、この摘発エピソードを残している。

また、食文化史研究家の岡田哲は「お好み焼きは、当時の東京の花街において座敷にしつらえた鉄板で客が自分の好みに焼く風流な遊戯料理として誕生した」と語っていることから、当時のお好み焼きは「男女の逢引」と密接したイメージの軽食だったようである。

男女の出会いを目的としたお好み焼き屋は摘発によって廃れたが、その後、通常のお好み焼き屋は人気が広がり、昭和12年頃に大阪初のお好み焼き屋とされる「以登屋」が北新地近くにオープン。昭和13年には浅草に現存する最古のお好み焼き店である「風流お好み焼き 染太郎」がオープンしている。

 

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 反日の偽書・田中上奏文 「東京裁判の前提に用いられる」
  2. 「働いたら負け」を生涯貫いたニートの天才詩人・中原中也 「お金と…
  3. 『戦前、日本は海外にも神社を建てていた』消えた「海外神社」と新た…
  4. 戦争へ世論を導いた「影の実力者」、徳富蘇峰について調べてみた
  5. インドカレー店がなぜ多いのか調べてみた【法務省も関与していた!?…
  6. お子様ランチを大人が注文できない理由とは?
  7. 「焼酎の歴史」について調べてみた
  8. 明治・大正時代の洋菓子について調べてみた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

フェルメールはなぜ日本人をここまで魅了するのか?

まるで写真のような繊細な質感が人々を虜にする画家・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』を始めとして…

行方不明になった女【漫画~キヒロの青春】79

【毎週日曜日に更新します】渋谷へGO!!【漫画~キヒロの青春】80へバック・ナンバー…

金森長近 【信長、秀吉、家康に仕え85才まで生きた赤母衣衆】

金森長近とは金森長近(かなもりながちか)は織田信長の親衛隊(赤母衣衆)の一人で、信長の死後は…

朝ドラでは“ぼんくら社員” 史実のやなせたかしは有能編集マンだった ※あんぱん

面接はグダグダで、入社後配属された社会部でも役に立たず「のぶの後押しのおかげで入社できた」と言われて…

吉原で最も有名な遊女「高尾太夫」と「16人の遊女たちの集団放火事件」

今回は前編に続いて後編である。吉原はただの遊郭ではなく、四季折々のイベントが目白押しで文化の…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP