第二次世界大戦の敗戦後、非公式のルートから入手したものなどを売買していたという 闇市(やみいち)。
それはどのような場所だったのか。
闇市が誕生するまで
日中戦争以降、国民の主食である米や物資が不足し、1940年には都市部を中心に米や他の生活必需品は政府の配給統制のもとで管理されるようになった。
しかし米穀通帳や配給切符が無いと米や物が買えず、米の配給量は年齢や職業によって違っていた。1〜5歳が120グラム、6〜10歳までが200グラムなどのように定められ、重労働とみなされる仕事に就いている人はやや増やされていた。しかしこの量は1日の1人当たりの十分な量とは言えなかった。
さらに戦争が長引くにつれ、小麦粉、食用油、紙、衣料品などの生活必需品も配給制となっていった。しかし配給が遅れたり滞ったりすることも頻繁であった。
そのため人々は農家から直接買ったり、非公式のルートで軍の流用品などを入手したりした。そのようなルートで買った米は配給米の何倍もの価格であったが、それが無いと生きていけない程の状況に陥っていたのである。
1945年の敗戦後は、戦地から日本本土に帰国した人々で都市部の人口は急激に増加した。しかし輸入が途絶えた状態だったために政府の統制物資はほぼ無くなり、配給制度は麻痺状態に陥った。また戦時中の爆撃により道路や鉄道が破壊され、農村部からの食料の運搬も困難となっていた。
そのため都市部の人々に必要な食料や物資の不足は深刻であり、東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2人以上で、大阪でも同様に栄養失調による犠牲者が出ていた。
ユニセフやアメリカの食料支援団体からも食料の提供があったが不足は埋められず、配給の遅配も相次いでいた。そのため人々は非公式のルートであっても、食料や生活必需品を入手する必要があった。
このような状況下で、戦時中の避難場所だった所や焼跡などの空地を占拠して、非合法に食料や生活必需品をやりとりする「闇市」が出現し始めたのである。
終戦直後は「闇市」とされていたが、後に人々の生活には無くてはならないという認識から「ヤミ市」と表現されるようになった。
ヤミ市で売られていたもの
東京では1945年8月20日、新宿駅東口で開かれたのがヤミ市の第1号といわれている。
ヤミ市で店を出す際には、的屋と呼ばれる露天商達がござなどで互いの境界を区切っていた。この的屋がヤミ市全体を取り仕切り、出店の際には的屋の許可が必要であった。
政府の統治力は低下しており、庶民はヤミ市が無いと生活出来ない状況で、警察も容認している部分がある状態だった。
その後、日本各地に次々とヤミ市が出現していった。
初めはざるに野菜を乗せたり魚を石油缶に入れたりなどの物々交換から始まったが、うどんなどの食事や酒も提供する屋台が出現し、廃材を使ったバラック建ての店も建てられた。
さらには日本軍や進駐軍から流れた日用品や嗜好品も並ぶようになり、生活全般で必要なものが売買されるようになった。
しかし非公式のルートから仕入れているため値段は通常の何倍もし、また出店している人の多くが一般人であり、場所により値段の差が大きかった。
そのような中、法律を守って配給のみで生活しようとした裁判官の山口良忠が餓死してしまうという事件も起きた。
ヤミ市で有名だったもの
・残飯シチュー
進駐軍の食堂から出た残飯が非公式のルートを経てヤミ市へ運ばれ、これに水を加えて大鍋で煮込み直して作られた。
中身は肉や野菜の欠片、コンビーフ、缶詰めらしきコーン、スパゲッティの欠片などが原型を留めないほど煮込まれた。しかし中にはガムのかす、たばこの空き箱や吸い殻なども入っていることもあった。また残飯シチューに類するものは警察の夜食としても提供されていたのだが、ここでは食べ残しでは無く調理の残りものの材料を使用した。ある日、食事中の捜査員が口の中で噛み切れないものがあったため吐き出すと、コンドームが入っていたこともあったという。
残飯シチューの味は人により評価が分かれるが、当時は人気があり人々は長蛇の列で並んで飢えを凌いだという。
このように衛生面を気にしていられない程に、人々の食生活は悲惨な状況にあったのである。
・カストリ酒
画像 : カストリ酒を飲む人々主にさつまいもや麦を原料とした素人が製造した粗悪な密造酒であり、ラベルの無い酒瓶に詰められていた。
屋台ではアルコール度数の低い物ならば庶民でも手が届くような価格で提供されていた。
中にはアルコールの匂いはするが、原料・度数も不明というものも多かった。
・バクダン
工業用アルコールを水で薄めただけの酒である。
飲むと燃えるように強烈だったが、健康に深刻な影響を与え、失明や中毒死と隣り合わせであった。
それでも安価な酒を求める人々がおり、中毒事故が多発した。
ヤミ市の終わりと現在
ヤミ市は人々に必要とされる反面で違法なものが多く出回り、安全性・衛生面の問題や、当時日本にいた在日外国人と的屋との縄張り争いなど、治安悪化の問題もあった。
政府は悪質なヤミ市を閉鎖するために、取り締まりを強化していった。しかし不安定な食料供給の中で人々はヤミ市を必要とし、その後もしばらくはヤミ市は存在し続けた。
1948年頃には世界の食糧生産も向上し、国の食糧輸入も拡大した。国内の米の配給量も増えて食料統制も少しずつ撤廃されていった。
1951年に麦の統制が撤廃されると、米以外の食品は全て自由販売となった。そしてその後の景気回復にしたがってヤミ市は姿を消していったのである。
現在ではかつてヤミ市だった場所の多くは商店街や繁華街となっている。しかし一部の裏通りではかつてのヤミ市を思わせる場所もある。
例えば新宿の思い出横丁は、戦後の雰囲気を残した飲み屋が並んでいる。他にも新宿ゴールデン街、上野のアメヤ横丁、大阪の鶴橋商店街など有名な場所が多数ある。
現在の「横丁」と呼ばれる場所の8割はヤミ市が起源といわれ、今も人々の生活と共にある。
ヤミという響きではあるが、ヤミ市は当時の人々の生活を支え、また人々のたくましさの象徴でもあった。
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