日本の歴史を語る際に、第二次世界大戦における様々な記録を目にすることがあるだろう。
こうした記録の中では、戦死者・戦傷者が何名であるとか、結果的にどの領土・領域が奪取されたといった部分が重視されがちだ。
しかしそのような結果が導かれるためにはもちろん、双方の軍による血みどろの戦闘が行われている。そして大戦末期には、日本軍は各地で悲惨な戦闘を戦うことになった。
この記事では、各地で敗北が続き、絶望的に不利な戦況が続く中でも優れた指揮を示した日本軍の指揮官について紹介しよう。
目次
地獄のインパール作戦で抗命撤退を判断した「佐藤幸徳」
1944年、太平洋戦争中の大日本帝国陸軍によって行われた作戦の中で、このインパール作戦ほど悪名高い作戦もそう多くはないだろう。
牟田口廉也中将による兵站を無視した無茶な強行軍により、戦闘行為よりもむしろ餓死・病死、そして撤退時に多くの損害を出したことでも知られている。
このような無茶な作戦の中で、増え続ける損害を抑制するべく、命令に背き独断退却を行ったのが「佐藤幸徳」という人物である。
佐藤はインパール作戦において、第31師団の師団長として参加していた。
インパール作戦の戦闘経過については他の記事にその説明を譲るが、特筆するべきは「抗命撤退」である。
先に解説したとおり、インパール作戦に従事した第31師団はすでに補給の限界を大きく越えており、食料も弾薬も届かない中、味方の兵士の死体を食する食人行為も見られたほか、前線ではもはや銃弾がなく、投石で応戦するものすらいたという。
このような状態においても、牟田口は「補給の困難を理由に「コヒマ」を放棄せんとするは諒解に苦しむところなり。」と電文しており、撤退を認めなかった。
この電文のやり取りの最中に佐藤は激昂し、イギリス軍の追撃に加えてマラリアや赤痢による病死、餓死や衰弱死した日本軍兵士の白骨が横たわる「白骨街道」を越えて後退したのである。
なお、戦後になってイギリス軍から、「当時のコヒマは兵力充分でなく、また、さらにその先にある要衝ディマプルは一個連隊の派遣で陥落した」とする情報が明かされ、牟田口は自身の作戦が正しかったこと、インパール作戦の失敗は佐藤の独断撤退によるものとして自身の名誉回復を図ったが、それは結果論である。
前線で自軍の兵士が飢えと病気で続々倒れ、砲弾・銃弾も届かない中で、さらに補給が困難となる地点へ兵を進めたり、当初の作戦目標を迂回して別の要衝を攻略することなど、攻略が確実に成功する目算でもなければただの暴挙であったことは言うまでもない。
大規模な犠牲を出しつつも、少しでも多くの兵を生還させた佐藤の判断は、陸軍刑法上の抗命罪に該当するが、この判断を誰が咎められるだろうか。
50倍の戦力を17日間足止めした「宮崎繁三郎」
宮崎繁三郎もまた、「地獄」のインパール作戦において優れた指揮を示した将のひとりだ。
先に解説した佐藤の抗命事件の際、牟田口は独断で撤退を始めた佐藤に激怒したが、その時点で抗命事件として扱うことを嫌い、佐藤の撤退を追認することとした。しかし一挙に全軍が撤退すれば戦線が崩壊することから、一支隊を現地に留め置き守備と敵の遅滞にあてた。
その支隊こそが宮崎支隊だった。
宮崎支隊はこのとき人員400名(一説には600名)ほどであり、殺到してきたイギリス軍は戦車隊を含む2個師団・20,000名だった。つまり、およそ50倍の敵を相手取ることとなってしまった。
宮崎は佐藤の抗命・独断撤退には否定的だったが、師団主力を撤退させる方針には理解を示し、平然とこの任務を受けたという。
宮崎は部下たちに「抗戦の世界記録を作るぞ」「街道上で一ヶ月間持久したら世界記録だ」と言って励まし、徹底的な遅滞戦術を採った。
支隊にわずか2門だけ残っていた連隊砲を、1発撃っては別の場所に移動してまた撃ち、火砲が充分に残っているように見せかけた。また、ある陣地が突破されそうになると、すぐに次の陣地へ移動してまたそこで戦闘を行ったり、数人単位での夜襲を断続的に繰り返すことで大兵力に見せかけた。
さらに砲本体が破壊されて持て余していた榴弾を電気点火地雷に改造して、橋もろとも敵戦車を爆破するなど「奇策」のオンパレードだった。
こうした宮崎の奮戦により、本来であればわずか2日で踏破できるコヒマ・インパール間の街道を、なんと17日もの間足止めしたのであった。なお宮崎はこの撤退戦においても大きな活躍を示したが、インパールに進撃を開始した当初は、イギリス軍の想定をはるかに上回る速度で急襲をかけ、コヒマ中心部で陣地構築をしていたイギリス軍を駆逐している。
宮崎は常々部下に、「攻撃に際しては先頭を、退却では最後尾を」と述べていたが、まさに「有言実行」の将であったわけである。
なお、宮崎支隊は防衛戦が突破されると、宮崎自ら担架で負傷兵を担ぎながら撤退し、その後ビルマ方面での「シッタン作戦」に従事している最中に終戦を迎えた。
戦後、1965年に死去したが、死の直前に「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と、うわ言を繰り返していたとされる。
最後の最後まで、困難な戦闘を戦い抜いた将だったということだろう。
「アメリカ人が直面した最も手強い敵の一人」、硫黄島に消えた「栗林忠道」
1945年2月19日から勃発した「硫黄島の戦い」は、映画やドラマなどでも描かれ、よく知られている。
この戦いがとりわけ注目されるのは「日本本土への戦略爆撃が可能となる拠点をかけた戦い」という、まさに瀬戸際の戦いであったことに加えて、アメリカ軍が展開した太平洋戦争後期の上陸作戦において、「守備隊である日本軍よりもアメリカ軍部隊の損害が上回った稀有な戦い」だったことにもその理由を見出すことができよう。
そして、この硫黄島の戦いにおいて、守備隊の指揮を執ったのが「栗林忠道」中将だった。
栗林中将が硫黄島の戦いにおいて特徴的だったのは、その防御戦術だ。太平洋戦争後期は、島嶼部におけるアメリカ軍の上陸作戦が多数展開されてきたが、日本軍は基本的に「水際防御」を主たる防御戦術としていた。
水際防御とは簡単にいえば、敵軍が上陸してくる海岸に砲・地雷・鉄条網やトーチカなどを配置して、敵の上陸用舟艇を海上で撃破するという戦術だ。
しかしこの時期の日本軍の水際防御作戦は、その多くが悲惨な末路を迎えた。
アメリカ軍は上陸用舟艇を近づける前に、大口径の艦砲射撃や航空攻撃によって、堅牢な陣地を築きづらく、砲爆撃の目標としやすい海岸の防御陣地をことごとく吹き飛ばしてから上陸したためである。
栗林中将が硫黄島の戦いで見せた戦術は、海岸での水際防御に重点を置かず、アメリカ軍を一定程度上陸させたのちに、味方の損害が抑えられる坑道・地下陣地から砲撃・機関銃の掃射によって損害を強いるというものだった。
また、水際防御に失敗した日本軍がしばしば採用した「夜襲切り込み作戦」や「バンザイ突撃」は、ほぼアメリカ軍にその手法が読まれており、対策されていた。
そのため栗林中将はこれらの損害の大きい戦術を採用せず、徹底して持久戦を展開し、アメリカ軍の損失を増やすことに腐心した。
この戦術によってアメリカ軍は多大な損害を被り、アメリカ海兵隊の公式報告書では、「海軍や航空支援を受けることができないことを運命づけられた栗林は、断固とした有能な野戦司令官であることを証明してみせた。」と評価されている。
島嶼防衛の真髄を見せた沖縄戦、「牛島満」
1945年3月、アメリカ軍はいよいよ日本本土攻略のための航空基地確保のため、沖縄本島への上陸を企図した作戦を展開した。
この沖縄戦は、守備にあたった第32軍の司令部がおかれた首里が5月末に陥落しても戦闘が継続され、およそ3ヶ月、6月下旬まで組織的戦闘が続けられた。
圧倒的な陸海軍戦力の差に対し、島嶼防衛の経験と知識を活かし粘り強く防御戦術を展開したのが司令官「牛島満」であった。
牛島は、サイパンの戦いなどでの水際防御戦術の限界という教訓を活かした。硫黄島やペリリューの戦いと同様に、徹底した持久戦と地下陣地戦術を展開し、兵の損耗を抑えつつ、敵に出血を強いるゲリラ戦を展開したのである。
また、硫黄島の戦いでは、アメリカ軍は強固に築かれた日本軍陣地を黄燐弾や火炎放射器などでひとつひとつ壊滅させる「トーチ&バーナー戦術」を採っていたが、沖縄戦ではこれに対するさらなる対抗策として、占領された敵陣地の近くにある自軍の陣地から野砲・擲弾筒・機関銃で集中攻撃をするという「まな板戦法」を展開した。なかでも、弾着が正確で飛来する音を聞き分けづらい擲弾筒は、アメリカ軍兵士から非常に恐れられた。
また、沖縄戦で初めて採用された「反斜面陣地」もアメリカ軍にとって脅威だった。
通常の斜面陣地は、敵軍と相対する丘陵の斜面に陣地を築く。硫黄島で採用された陣地の多くはこれだったが、沖縄戦ではさらに敵から見て斜面を乗り越えた先に陣地を構築し、丘陵の頂上や途上などに監視哨だけを設けるという方法が取られた。これが反斜面陣地である。
つまり、丘陵そのものを壁として利用するために直線の弾道を取る火器で敵を狙うことができない代わりに、敵からも直射火器の攻撃を受けることがなく、自軍からは敵を観測した上で迫撃砲・榴弾砲・重砲など曲射弾道を取る火器で敵を狙い撃ちすることができるという、「自然を利用した陣地構築」であった。
このような陣地構築を可能としたのは、沖縄の南部地域にあるツルハシが通らないほど硬い隆起珊瑚礁と、反対に柔らかい砂岩とが組み合わさった地層であった。
沖縄という島の地層や地形を活用する慧眼がなければ採り得ない戦術だったのである。
こうした持久戦を展開した結果、牛島は敵であるアメリカ軍から「牛島の円熟した判断力(米国陸軍省)」、「歩兵戦闘の大家である牛島将軍(アメリカ軍司令サイモン・B・バックナー・ジュニア中将)」などと評価された。
ギリギリで撤収の判断ができた名指揮官「木村昌福」
太平洋戦争において、「奇跡の作戦」と呼ばれた作戦がある。それが、1943年5月27日から行われ、5,000名あまりの日本軍将兵の無血撤退を成功させた「キスカ島撤退作戦」である。
※関連記事 : キスカ島の奇跡について調べてみた
https://kusanomido.com/life/military/25303/
木村昌福は、アッツ島の戦いで守備隊が玉砕してしまい、完全に孤立したキスカ島守備隊を撤退させる作戦の第二期撤収作戦を指揮していた。
この作戦の困難さは、周辺で警戒しているアメリカ艦隊の目をいかにかいくぐるかという点にあった。そのため、作戦の成功にはキスカ島近辺に濃霧が発生していることが求められた。
木村が第二期撤収作戦のためにキスカ島に接近した7月12日、不運にもキスカ島の霧は晴れてしまった。さらに翌13日、14日、15日も霧が晴れてしまった。
木村は「帰ろう、帰れば、また来られるからな」と、撤収を待つ守備隊を後目に根拠地である幌筵に帰投した。もちろん守備隊を乗せずに戻ってきた木村に対して、第5艦隊司令部、連合艦隊司令部、そして大本営からも突入してでも守備隊を回収しなかったことに対する批判が噴出した。
しかし木村には、霧が晴れた状態で撤収作戦を決行すれば、空襲作戦によって艦隊に壊滅的な損害を被るという確信があった。そのため守備隊を置き去りにする辛い決断をしてでも、再度濃霧が発生する撤収作戦の機会を待つことができたのである。
実際にキスカ島から守備隊が撤退することができたのは7月29日と、それからさらに2週間ほども経過した後であった。
木村のギリギリの判断によって、キスカ島守備隊は「奇跡」と冠される無血撤退に成功したのである。
おわりに
太平洋戦争においては、各地で日本軍・アメリカ軍の死闘が繰り広げられた。無論不利な戦闘を強いられた日本軍は、悲惨なエピソードに枚挙にいとまがない。
しかし絶望的な戦況の中でいかなる戦術を採用するか、いかに味方の損害を抑えつつ作戦目標の実現を目指して行動することができるかは、まさに「将」に求められる能力であるといえる。
この記事で名前を挙げた人物は、絶望的な戦況にあってなお、あらゆる手を尽くして状況を好転させようとした指揮官たちなのである。
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