「からゆきさん」という言葉に、聞き覚えのある方は多いのではないだろうか?
「からゆきさん」とは、19世紀後半頃、海外へ渡り売春婦として働いた日本人女性のことである。
出稼ぎ労働者
「からゆき」とは、明治〜昭和初期頃まで九州の西部・北部で使われていた言葉で、「唐(から)」へ出稼ぎに行くことであった。
唐(中国)から転じて、海外の国々のことを指すようになり、明治維新後、貧しい人々が海外へ働きに出るとその人々を「からゆき(唐行き)」や「からんくにゆき(唐ん国行き)」などと呼んだ。
海外の出稼ぎといっても、当初は行商をしたり土工、石工などになって親方に従う場合が多かった。そして娼館も繁盛していたため、海外へ渡る女性も多くいた。
やがて「からゆき」とは海外の娼館へ奉公に出る女性を意味するようになった。特に九州の天草諸島・島原半島出身者が多かったという。
彼女たちの主な渡航先は北はシベリアや中国、南は東南アジア諸国、そして北米やハワイ、さらにアフリカ方面にまで広がっていった。
彼女たちからの送金が国の資本となり、日本人が海外へ広く進出するきっかけになったことから、明治年間には「娘子軍」とも呼ばれていた。
国家の背景
当時の日本国家は西欧の先進資本主義に追いつこうとしていた。しかし明治中期までの日本は富国強兵を目指すも、国家的経済力も発言力も弱かった。
当時の日本は海外からの資金調達が必要であり、そのため海外の出稼ぎ労働者からの送金は、外貨獲得のためにも重要であった。
明治33年度、ウラジオストクを中心とするシベリア一帯の出稼ぎの人々からの日本への送金額は約100万円で、その内の63万円程がからゆきさんの送金であった。そのことから政府にとってもからゆきさんは、西欧列強にある程度対抗出来るようになるまでは必要な存在であった。
そのため日本政府は海外売春婦の更生策や、横行する売春斡旋業者の取り締まりなどに対して徹底した対策を打たなかった。
大正4年(1915)に日本が中華民国に対華21箇条の要求を出したことで日貨ボイコット運動が始まり、東南アジア各地の日本人商店も廃業するところが続出したが、この時もからゆきさんの労働によって外貨獲得が出来たのだった。
海を渡る娘たち
からゆきさんとして海外へ渡航した日本人女性の多くは、農村や漁村などの貧しい家庭の娘であった。
当時の日本では、少女の人身売買は珍しいことではなかったのである。
彼女達を海外の娼館へと橋渡しした「女衒」という売春斡旋業者は、貧しい農村などをまわり、娘を探し見つけると
「海外に良い奉公先があるから連れていってやろう」
「海外へ行けば綺麗な着物が着れ、美味しいものも食べられる」
などと甘い言葉で娘たちを勧誘した。そして娘の親に代金を渡していたのだった。
さらに当時の日本では家族のために娘が身売りすることは、立派な親孝行という考え方があった。その後、娘達は船に乗せられ海外へ渡った。
女衒は娘達を密航させるため、しばしば船底の石炭庫を使用した。この密航は運が良ければ数日間の絶食で上陸することが出来たが、中には途中で餓死してしまう娘も多くいたという。石炭庫の中は昼でも真っ暗な上に、トイレや風呂も無い状態であった。
そんな石炭庫にまつわる、ある痛ましい話がある。
明治末期、ある貨物船の石炭庫に2人の女衒と10数人のからゆきさんが潜んでいたが、買収した船員が他の船員から行動を怪しまれ、石炭庫への食糧や水の差し入れが出来なくなってしまった。
命綱の補給を断たれた娘達は、石炭庫の高気温に加えて飢えと乾き、さらに糞尿の腐敗した臭気に耐えきれず泣き叫んだ。しかしその声は鉄の壁に遮られ、しかも滅多に人の来ない船底ともあり誰にも気付かれなかった。
数日後、なぜか飲料水が船室へ上がらなくなったため、担当者がポンプなどを調べるために石炭庫の扉を開けると、中には炭塵にまみれ唇を血みどろにし、憔悴している娘達がいた。しかも側には全身に噛まれた傷跡がある2人の男の死体があった。
彼女達は喉の渇きに耐えられなくなり、暗闇の中で水道管を探り当て、必死に自身の歯で水道管を噛み破ったのだった。しかし噛み破った箇所から空気が入り、水はタンクへと落ちてしまった。
心身共に限界状態となった彼女達は、その怒りを女衒達に爆発させたのである。
しかし、2人とはいえ相手は力の強い男である。
寝込みを襲ったのかも知れないが、女衒の血をすすって生き延びるという恐ろしい結末となったのであった。
娼館での労働
からゆきさんは無事に異国に到着すると、娼館に連れて行かれて住み込みで働いた。
大正後期頃の英領・北ボルネオのサンダカンのからゆきさんの労働条件を例にあげると、お客は1泊すると10円、泊まり無しの場合は2円でお客1人当たりの時間は3〜5分、それ以上かかる場合は割り増し料金になった。
からゆきさんが稼いだ賃金の50%は娼館の主人に渡し、25%は借金返済分となり、残りが彼女達の手元に残ったという。
しかしそこから着物代や化粧代などの雑費がかかり、手元のお金が足りなければ主人から借りることになった。そうするとまた借金は増え、もし病気などで休めば借金の返済も長引いた。さらに日本からの諸々の渡航費も借金となっていた。
また、政府の衛生局による性病検査があった。週1回の淋病検査、1〜2ヶ月に1回の梅毒検査があり、その検査料も負担となった。検査は強制のため、受けないと罰金を払った。
からゆきさんは性病対策のため、お客の相手をした後はその都度、消毒液で膣内を洗浄することになっていた。娼館は、性病検査で不合格者が出ると一定期間営業停止になるため、彼女達に必ず洗浄をさせた。しかし洗浄の繰り返しが原因で不妊になった人もいたという。
借金を返す為にせっせと働けば毎月100円ずつ返せたということから、1ヶ月でゆうに100人以上のお客を相手していたことになる。特に、船が港に入るとどこの娼館も満員になり、ひどい時は1晚に30人のお客を相手した人もいた。体調が悪い時でも休めず、生理中の時は紙を詰めて仕事をしたという。
また他の国のからゆきさんの中には、性病や風土病にかかったとしても、人間らしい手当などは受けられなかった人もいたという。
娼館の廃止
からゆきさんは家族に送金するため、借金を返すために過酷な労働をしていた。そのような環境でも明治37年(1904)、日露戦争が勃発した際には、多くのからゆきさんが祖国のためにと莫大な献金をし、日本軍の勝利に貢献したという。
しかしその後、日本が第一次世界大戦の戦勝国になると、からゆきさんの存在は日本の資本主義発展の妨げになるとされるようになった。日露戦争での勝利以降、次第にからゆきさんは「国家の恥」と捉えられるようになっていったのだ。
日本政府は、1910年代から海外の日本人娼館の廃止に取り組み始め、大正9年(1920)にはシンガポールをはじめ、マレー半島のすべての日本人娼館を廃止した。そして多くのからゆきさんは日本に送り返されることになった。
廃娼後も、現地で家庭を持つなどして残った人や、仕事をするために他の国へ移っていった人もいた。日本政府は、からゆきさんの帰国後の生計の立て方については特に対策を立てておらず、手を差し伸べてはくれなかったのだ。
貧困のせいで少女達が海を渡り、結果的には家族だけでなく国家まで支えていた現実は壮絶である。貧困から生まれる売春は今も昔も普遍的な問題である。
参考文献
サンダカン八番娼館 底辺女性史序章 (筑摩書房)
からゆきさん (朝日新聞社)
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