米騒動とは
米騒動とは、大正7年(1918年)米価暴騰による生活難に、民衆が米の値下げ販売を要求して米店・資産家・警察などを襲撃した事件である。
富山県沿岸部で起こり、1道3府32県に波及し、鎮圧に軍隊が出動するなど前代未聞の全国的な暴動に発展した。
今回は、米騒動について解説する。
背景
第一次世界大戦の影響で好景気となり、米の消費流が増大した。
しかし、工業労働者の増加や農村から都市部への人口流出によって、米の生産量は伸び悩んでいた。
大正3年(1914年)第一次世界大戦開始直後に暴落した米価は、約3年半ほぼ変わらずに推移していたが、大正7年(1918年)中頃から第一次世界大戦の影響によって米の輸入量が減少し、米価は急激に高騰した。
これは資本主義が急速に発展して都市の人口が急増し、米の需要が増大したにも関わらず米の生産が停滞し、供給不足に陥ったことが根本的な原因だった。
更に米商人が投機を計って売り惜しみ、買い占めを行っていたが、当時の寺内正毅内閣は地主や商人の利益のために、外米輸入関税撤廃の措置を取らなかった。
そしてシベリア出兵の決定によって買い占めがより一層行われ、米価は異常に暴騰し、新聞が連日米価高騰を大きく報じたこともあり、民衆の生活難と生活不安が深まったのである。
きっかけ
大正7年(1918年)7月23日の午前8時半頃、富山県下新川郡魚津町で「米価が暴騰するのは、米を他の地方に移出するからだ」として、漁民の妻女46人が移出を阻止しようと海岸に集合したが、警察に解散させられた。
8月2日にかけて富山県下で類似の事件が2回起きたが、県外には知られなかった。
蜂起
8月3日の夜、富山県中新川郡西水橋町で、出稼ぎ漁民の妻女ら約300人が資産家や米屋に押しかけ、「米の移出禁止と米の販売」を嘆願したが、またも警察に解散させられた。
しかし8月4日夜、再び数百名の女性が集結し、町長・有力者・米屋に向かって救済を請い、米の移出禁止を要求した。
この騒ぎは翌日に及び、5日夜には隣接の滑川町でも約300人の女性が資産家と米屋に救済を訴えた。
6日には、男女混成の群衆が資産家宅に押し寄せ、ついに打ちこわしに及んだのである。
同様の動きは県下各所に広がった。
6日付けの全国紙に3日の西水橋町の事件が「越中女房一揆」として報じられると、8日には岡山県真庭郡落合町での事件を最初として、騒動は富山県外にも波及。
岡山県各地の他、和歌山県・香川県・愛媛県などで騒動が続発した。
都市部に拡大
10日夜には、名古屋と京都の両都市で大騒動が発生し、事態は新しい局面に入る。
名古屋では鶴舞公園に1万5,000~3万の群衆が集り、演説が行われた後に米屋町を目指して群衆が押し出し、警察隊と衝突、騒動は11日12日に一層激化したために、遂に軍隊が出動して鎮圧した。
京都では10日夜、被差別部落民数百人が米屋に次々と押しかけ、米の安売りを認めさせたのを皮切りに、11日夜には市内全域で安売りの強要と打ちこわしが行われ、軍隊が出動して鎮圧にあたった。
11日以降は、大阪市・神戸市でより一層大規模な暴動が発生し、焼き打ち・略奪・乱闘が繰り広げられた。
騒動は近畿・東海・中国・四国に拡大し、13日には東京市でも大暴動が起き、関東各地や九州にも波及し、13日~14日頃には絶頂に達したのである。
都市部から農村部へ
「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績から、騒動は8月中旬以降、都市部から農村部へ主な舞台を移し、17日以降は山口県宇部炭鉱を始め、同県下及び北九州の諸炭鉱に激烈な炭鉱暴動が相次いだ。
そのほとんどに軍隊が出動して鎮圧にあたり、宇部では発砲などでなんと13人の死者が出た。
政府は8月13日に1,000万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し、各都道府県に米の安売りを実施させたが、「騒動の結果、米価が下落した印象がある」との理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。
騒動は9月12日、熊本県万田炭鉱の暴動を最後として終結した。
騒動の結果
この米騒動は約50日間に及び、青森・岩手・秋田・栃木・沖縄の5県を除く1道3府38県の38市153町177村、計368か所に大小の暴動・示威が発生した。
参加人数は数百万人に達するものとみられる。
政府は120地点に10万人以上の軍隊を出動させ、警察力と相まって騒動を鎮圧した。
各個に鎮圧され2万5,000人以上が検挙され、8,200人以上が検事処分に付された。
7,700人以上が起訴され、第一審での無期懲役が12人、10年以上の有期刑が59人だった。
騒動はほとんどが自然発生した非組織的なもので、統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。
寺内は体調不良もあり9月21日に正式に辞表を提出し、原敬を首相とする日本で初の政党内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったことで、原は民衆から「平民宰相」と呼ばれて歓迎された。
米騒動は日比谷焼き打ち事件以来の一連の民衆暴動の最後のものとなり、民衆の権利意識の高まりのもとに、労働運動・農民運動・女性運動・学生運動・普選運動などの目的意識的・組織的な民衆運動が一斉に開花することとなった。
参考 :
米騒動・大戦後デモクラシー百周年論集 | 井本 三夫 (著)
水橋町(富山県)の米騒動
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