目次
魔術の女王・松旭斉天勝とは
明治、大正、昭和と三つの時代を通じて「魔術の女王」と称された女性奇術師がいた。
彼女の名は松旭斉天勝(しょうきょくさい てんかつ)である。
天勝は、その美貌と卓越した奇術の技で国内外の多くの人々を魅了した。彼女は当時としては大柄でグラマラスな女性であり、微笑むとダイヤの義歯が輝き、その素肌の美しさから「人魚の肉を食べている」と噂された。
ここでは、そんな魔術の女王・松旭斉天勝の生涯について解説する。
12歳で奇術師・松旭斉天一の一座に入る
松旭斉天勝の本名は中井かつといい、明治19年(1886年)5月に東京神田の質屋の長女として生まれた。
裕福な家庭で育ったかつは、幼少期から踊りや常磐津(三味線音楽の一流派)を習っていた。しかし、父親が別の事業に手を出して失敗し、一家は困窮に陥った。12歳の時、かつは門前仲町の天ぷら屋で奉公人として働くことになった。
その後、店でかつの面倒を見ていた奇術師・松旭斉天一(しょうきょくさい てんいち)の姪の目に留まったことがきっかけで、天一の一座に入ることとなった。
師匠である松旭斉天一は、20代前半の頃に大阪で人気を博していた日本手品の名人から「水からくり」(後の水芸の母体)や「浮かれの胡蝶」(懐紙をひねって蝶を作り、風を当てて空中を舞う芸)などを学んだ。
さらに、西洋奇術師ジョネスに弟子入りし、上海での興行にも同行して大仕掛けの西洋奇術を習得した。
明治21年(1888年)には東京で初めて大掛かりな西洋奇術を公演し、翌年には明治天皇の御前で公演するなどして奇術界の第一人者となった。
天一の弟子は100人を超えるほどであり、その中でかつも奇術の道を歩み始めたのである。
座員達からの嫌がらせに耐えながら、奇術の稽古に励む日々
天一の一座に入ったかつは、少女でありながら独特の色気と魅力を持ち、天一からすぐに気に入られた。
天一はかつに「天勝」という芸名を与え、彼女を常に側に置いた。
一座にはスターであり天一の愛人でもある杉江という女性がいたが、天一は夜に杉江と寝る時でさえ、天勝を傍らに寝かせていたという。
この特別待遇に嫉妬した座員達から、天勝の失敗とみせかける嫌がらせをステージ上で受けることもあった。その度に天一から激しく叱られたが、天勝は決して泣かず「泣かずの勝」と呼ばれた。
彼女はめげずに奇術の稽古に励み、自分なりの工夫を加えて技を磨いていった。
一座の人気演目の一つに「大砲」があった。
これは花道にセットされた巨砲の砲口から天勝が入り、天一が引き金を引くと大きな砲声とともに白煙が立ちこめ、次の瞬間には上手につるされた月輪に天勝が命中しているというものである。
この演目で天勝は、張り物の月輪にもぐり込んだ後、月輪の表面を内側に引いて破ってから両脚を出すという工夫を加え、頭から打ち込まれたように見せることで観客から絶賛された。
次第に天勝は座員達から一目置かれる存在となり、さらなる工夫と努力を重ねていき、美しさと魅力も日増しに増していった。
しかし、ある日、嫉妬を抑えられなくなった杉江が「天勝が幼なじみ宛てに書いたラブレターを拾った」と言って天一に見せたことで、天勝は破門され、絶望の末に入水自殺を図った。
しかし、幸運にも助けられ、杉江の仕業であったことが判明すると、天一は杉江を一座から追放した。
明治32年(1899)頃、天勝は一座のスターになり、また天一の愛人になったのだった。
松旭斉天勝の魔力
その頃、天一一座は奇術だけでなく、コミカルな寸劇やダンスなども加えた西洋風のショーを行い、人気を博していた。
特に天勝がステージに立つと、どんな会場も満員になった。
彼女は奇術の技だけでなく、「羽衣ダンス」という演目でドーラン化粧やつけまつ毛、アイシャドーを施した洋風メイクをし、スパンコールをつけた薄物の衣装を身にまとい、当時としては珍しい洋舞を踊り人気を集めた。
天勝がステージから特定の観客に向けて彼女の『流し目』を送ると、その客は必ず翌晩も来て、しかも同じ席に座ったという。
しかし、その魅力が引き起こした事件もあった。
ある中国人留学生の青年が天勝に結婚を迫ったのである。しかもその青年は、自分が真剣である証として自分の小指を切り落とし、それを天勝に渡そうとしたのだった。
後日、天勝は素顔のままで青年に会い「自分はしがない芸人である」「学業をなげうって身を誤ってはいけない」などと、根気強く青年を諭した。
青年は学業に戻り、無事に卒業して帰国後は政府の要人となったという。
この事件以降、天勝は特定の観客に視線を送ることをやめた。それほどまでに天勝の魅力は特別なものであった。
海外巡業と帰朝公演の成功
明治34年(1901年)、天一一座はアメリカ巡業を開始し、サンフランシスコでの公演が最初であった。
しかし、演技のテンポが遅く、観客からの不満が続出し、最初の公演は失敗に終わった。
天一は反省し、演出をアメリカ風にスピードアップし、トリに「水芸」を据えるなどの工夫を重ね、次第に一座は人気を集めた。
シアトルでは伊藤博文の前で奇術を披露し、伊藤は天勝を気に入り、帰国後も宴席に招いたという。
一座は3年間のアメリカ巡業を終えた後、ヨーロッパに渡り、そこでの公演も成功を収めた。当時19歳だった天勝は「キュートなスター」として外国人からも人気を集めたが、日露戦争の影響により明治38年(1905年)に帰国し、歌舞伎座で帰朝公演を行った。
帰朝公演では、凱旋門などに用いられたイルミネーションからヒントを得て、色電球を多用した美しい照明が評判となった。天勝が「羽衣ダンス」を披露する際には、7色の照明で彼女を照らし、その光に包まれて舞台上で洋舞を披露する天勝の姿に観客は驚き、興奮した。
各地の巡業も大入りとなり、天勝はますますその名を高めていった。
天勝一座の立ち上げと新たな挑戦
明治44年(1911年)、師匠である天一が直腸ガンで引退することとなり、天勝は天一のあとを継いで「天勝一座」を立ち上げた。
26歳の時、浅草で一座の旗揚げ興行を行い、好評を得た。天一は59歳でこの世を去ったが、その後も天勝一座は朝鮮や中国などで意欲的に興行を続けた。
大正4年(1915年)、天勝は一座の辣腕マネージャー・野呂辰之助と結婚した。
この結婚には打算的な部分もあったが、座長とマネージャーの結婚に反対した一部の座員達が一座を脱退した。
野呂は一座の新企画を考え、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』に目をつけた。天勝のサロメは、彼女の肉体美と奇術を融合させた演目として大ヒットし、話題となった。
魔術の女王の引退と最期
その後も天勝一座はアメリカ巡業や台湾公演を行うなど活動を続けた。しかし、次第に野呂の健康状態が悪化し、昭和2年(1927年)に野呂は亡くなった。
天勝は一時一座を解散しようと考えたが、多くの人々の励ましと協力で立ち直った。
昭和6年(1931年)、帝国ホテルでのクリスマス出演をきっかけに、新橋にレストラン『ふもと屋』を開き、そこで初めて「お子さまランチ」を提供した。しかし、店は赤字が続き、開店から2年足らずで閉店した。
天勝は50歳を迎える直前に引退を発表し、引退披露興行として日本全国を回り、中国や朝鮮を巡業した。
帰国後は映画『魔術の女王』に特別出演し、2代目天勝を姪の絹子に襲名させた。
昭和12年(1937年)、日中戦争が始まると、一座の興行どころではなくなった。
天勝は一座の大道具を惜しげもなく投げ出し、国のために鋼鉄製品を献納したという。
昭和19年(1944年)、食道ガンと診断され、同年11月に58歳でこの世を去った。
おわりに
こうして多くの人々から愛され、奇術の黄金時代を築いた魔術の女王・松旭斉天勝は、その生涯に幕を閉じた。
彼女の存在は、日本の奇術史に燦然と輝くものであり、その功績は今なお語り継がれている。
参考文献
石川雅章「松旭斉天勝」桃源社 1968
中江克己「明治・大正を生きた女性」第三文明社 2015
この記事へのコメントはありません。