大正&昭和

【私財を投じて100人以上の孤児を救った主婦】 石綿貞代と「愛児の家」

太平洋戦争で親や家を失った戦争孤児は、約12万人。

彼らの保護は公的な施設だけでは手に負えず、民間団体や個人による施設が多数設立されました。

1947年の調査では、孤児を収容する公立の施設が全国に53か所だったのに対し、民間は253か所。
当時、民間人の果たした役割は、とても大きかったのです。

愛児の家」を設立し、戦後の混乱期に100人以上の孤児を育て上げた石綿貞代(いしわた さたよ)さんも、私財を投じて孤児たちの救済に尽くした一人でした。

ナイチンゲールに憧れる少女

画像.見習看護婦 [土門拳 日本カメラ 1955年5月号] public domain

石綿貞代さんは、1897年(明治30年)山形県生まれ。
代々鶴岡藩の家老を務めた家柄で、3歳で母親を亡くした彼女は、元武士の祖父に育てられました。

キリスト教系の女学校を卒業後、ナイチンゲールに憧れ、浅草の叔父を頼って上京。神田の病院で見習い看護師として働き始めます。

その後、勤務先の病院で織物製造を営む石綿金太郎氏と出会い結婚。実業家の妻として、裕福な生活を送っていました。

1940年には神田から中野に転居し、木造2階建ての一軒家に三人の娘と住み始めます。広い敷地に1階6部屋、2階4部屋という大きな家でした。

「愛児の家」の誕生

石綿貞代と「愛児の家」

画像. 孤児院イメージ 「祈り」藤村博英撮影. 1955年. public domain

困っている人を放っておけない性分の貞代さんは、上野駅の浮浪児を見るにつけ、「なんとかしなくては」と思っていました。

1945年9月、5歳くらいの孤児の男の子を友人が連れてきたのをきっかけに、翌年から浮浪児の保護を本格的に始めます。

1946年1月には、慈善事業に感銘を受けた東京都民生局長が「愛児の家」と命名しました。

1945年の9月に1人だった孤児は、1946年2月には15人、1946年12月には60人と増えていき、1947年の夏には107人。

愛児の家は、わずか2年で100人を超す大所帯となったのです。

口コミで「愛児の家」に集まってきた孤児たち

石綿貞代と「愛児の家」

画像.運動会(イメージ)『鯉のぼり運動会』原田正, 写真サロン1956年9月号 public domain

愛児の家は善意によって運営されていた民間の孤児院でした。

開設当初は、貞代さん自身が上野で声をかけた孤児を保護していましたが、そのうち愛児の家の評判を耳にした孤児たちが、自分から愛児の家へやって来るようになります。

1947年に行われた東京都養育院の施設対抗運動会では、ちょっとした騒ぎが起きています。

その日、貞代さんは、愛児の家の子どもたちに色鮮やかな幕の内弁当を持たせていました。
それを見た他の施設の子どもたちが、後日、集団で愛児の家にやって来てしまったのです。

孤児たちの間では、愛児の家は施設ではなく、「あたたかい家」という口コミが広まっていき、他の施設から脱走して愛児の家を目指す子が後を絶ちませんでした。

窃盗と苦しい資金繰り

石綿貞代と「愛児の家」

画像.新円切替 public domain

孤児の中には、石綿家の高価な置物や時計、衣類、靴などを盗んでは闇市で売ってしまう手癖の悪い子や、初めから窃盗目的でやって来る子もいました。

物が盗まれるのはしょっちゅうでしたが、1946年2月、切り替え直後の新円5000円分(現在の約200万円)を姉弟に持ち逃げされたときは、さすがに応えたそうです。

子どもたちが増えるにつれ裕福だった石綿家の貯金は底をつき、代わりに借金は日増しに増えていきました。

愛児の家開設から1年で、積もり積もった借金は38,000円。衣類や家財道具など売れるものは片っ端から売って食料にかえ、街頭募金をしたり寄付をお願いしたりしましたが、それだけでは全く足りません。

知人に借金をお願いしても応じてくれる人もなく、千円を投げつけられ「これをやるから、二度と来るな」と怒鳴られたこともありました。

お金のやりくりに頭を抱える中、救いの手を差し伸べてくれたのは、新聞や雑誌で愛児の家を知ったGHQや米国人だったそうです。

貞代さんや3人の娘さんたちの必死の努力と、たくさんの人々の支援を受けて、愛児の家は存続できたのでした。

自分の子どもと同じように孤児を育てた貞代さん

画像.こども(イメージ)『こども』奥平晶一, カメラ毎日 1956年1月号 public domain

愛児の家は施設ではなく「家」であり、貞代さんは子どもたち全員の母親でした。

朝はまだ暗いうちからそっと布団から抜け出し、大勢の食事の準備をします。

自分の娘と同じように子どもたちを「さん」づけで呼び、士分だった祖父に倣い礼儀作法を厳しくしつけました。

また貞代さんは、子どもたち一人ひとりと時間を持つことを大切にしていました。
二人でお出かけしたり、一緒に買い物に出かけた帰りにちょっとした食事をしたり、お墓参りに連れて行ったこともありました。

そうした母と子どもの特別な時間を持つことで、子どもたちは自分が大切にされているという思いを強くし、外の世界を知る機会を得ることができたのでした。

愛児の家の子どもたちがすくすくと元気に育ってくれることが、貞代さんにとって何よりの幸せでした。
彼女が一日の仕事を終え新聞でも読もうと座った途端、わっと集まって来ては甘えてくる子どもたちが、可愛くて仕方がなかったそうです。

そんな子どもたちが中学を卒業して巣立っていくとき、貞代さんは胸が詰まって口がきけなくなってしまうのでした。

さいごに

子どもたちの貞代さんへの感謝の念は強く、家を出て就職した子どもたちは、毎月会費を徴収し愛児の家に寄付をする活動をしていました。

私財を投げうって育ててくれた貞代さんへの、子どもたちからの恩返しです。

幼いころ母親を亡くしたので、母を失ったものはかわいそうでたまらないのです。(中略)そんなかわいそうな子を救ってやれるのは、やはり母でなくてはならない」『女性教養』

そう語り、大勢の子どもたちからママさんと慕われた石綿貞代さんは、1989年4月22日、92歳で帰らぬ人となりました。

彼女の「なんとかしないと」という強い思いは、今なお「愛児の家」に受け継がれています。

参考文献 :
石井光太『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』.新潮社
浅井春夫・水野喜代志編『戦争孤児たちの戦後史3 東日本・満州編』.吉川弘文館
『女性教養』7月(186),日本女子社会教育会,1954-07. 国立国会図書館デジタルコレクション
『婦人生活』3(9),婦人生活社,1949-09. 国立国会図書館デジタルコレクション

 

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草の実堂編集部

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