九条武子(くじょう たけこ)は、京美人の代表格として『大正三美人』の一人に数えられる女性である。
武子は京都・西本願寺で生まれ、その後は仏教婦人会の要人となり社会事業に尽力した。
一方で、武子は結婚して間もなく、夫・九条良致がイギリスへ留学したことにより、別居生活が長引き、当時の世間で夫婦不和のうわさが立った。
だが、武子はそのような世間の視線に屈せず、歌を通じて自身の感情や女性の苦悩を表現し、多くの共感を得た歌人でもあった。
今回は、慈愛に満ちた美貌の歌人・九条武子の生涯を詳しく追っていく。
京都の寺で生まれ、10代後半で仏教婦人会の要人となる
明治20年(1887年)10月、九条武子(旧姓・大谷)は京都の西本願寺で生まれた。
父は本願寺第21代宗主・明如(大谷光尊)であり、武子は大谷家の次女であった。明如は子供たちの教育において、人間としての心の豊かさを育むことを重視していたという。
武子は小学校を卒業後、家庭での教育を受け、茶道や和歌などの文芸に励んだ。
義姉である籌子(かずこ : 武子の長兄・鏡如〔光瑞〕の妻)と共にフランス語も学び、単語の暗記がうまくいかず涙することもあったが、武子は懸命に努力したという。
明治36年(1903年)に父が亡くなると、長兄の鏡如夫妻は増加する法務や戦時下の一般事業の処理に追われることになり、その一環として全国真宗婦人会の組織化を進めた。
日清、日露戦争を機に新しい仏教婦人会づくりが進展し、義姉の籌子は総裁として全国巡教の激務をこなさなければならなかった。
そんな籌子を助けるために、武子は10代後半で総裁代理となり、その後本部長に就任した。
彼女は青春時代を仏教婦人会の近代化に捧げ、その発展に大きく寄与したのである。
結婚後間もなく夫はイギリスへ
明治42年(1909年)9月、武子は男爵・九条良致(よしむね)と結婚した。
良致は左大臣だった九条道孝の子で、籌子の実弟である。この結婚を積極的に推進したのは籌子だったという。
その年の12月、二人は新婚旅行を兼ねてイギリスへ渡った。良致が天文学を学ぶためケンブリッジ大学に留学することも、目的に含まれていた。
翌年、明治43年(1910年)1月、武子と良致は、先に渡欧していた鏡如夫妻とマルセイユで合流し、イギリスへ向かった。
その後、良致はイギリスに留まり、武子は籌子と共にイギリス国内の女学校や福祉施設を視察し、その後地中海を周遊して同年10月に帰国した。
なお、兄の鏡如は明治35年(1902年)頃から、仏教遺跡の調査のために西域探検を行っていた。
彼は収集した遺物の分析や研究に必要な専門家を求めており、その一環として良致の留学を勧め、天文学分野での専門知識を期待していたという。
こうして、武子と良致の別居生活が始まったのであった。
女子大学設立のために活動する
武子が帰国してしばらくすると、義姉の籌子が体調を崩した。
そして明治44年(1911年)1月、籌子が30歳で急逝し、武子は大きなショックを受けた。
それでも、彼女は仏教婦人会の本部長として職務を全うし続けた。
当時、女性の教育が遅れていたことから、武子は女性の教育を広げるために宗門の女学校・女子大学設立のために活動した。
武子が宗門の女子大学を設立しようとしたのは、既存の日本女子大学などの建学の精神が異教徒(キリスト教)であることを意識していたからであった。
その後の大正3年(1914年)、大谷家の負債問題が表面化する。
その責任を取る形で兄・鏡如が宗主を引退すると、女子大学設立の計画も資金面で厳しい状況となり、反対する声も上がった。しかし、武子は決して諦めることなく、計画を進め続けた。
また、夫の良致は3年間の留学後に帰国するはずだったが、良致に負債問題の影響が及ぶことを懸念した鏡如が、彼のイギリス滞在期間を延長させた。
こうして、武子は別居生活がさらに長引く状況にも耐えながら、教育事業や宗門の活動に邁進したのである。
歌集を出版し話題となる
大正5年(1916年)、武子は歌人・佐佐木信綱が主宰する『竹柏会』に入門し、女性歌人として本格的に啓発されていった。
彼女は結婚して間もなく、夫の九条良致と長期間にわたる別居生活を送っていたことから、世間の好奇の目にさらされ、夫婦不和の噂が絶えなかった。
しかし、武子はそうした世間の声に屈することなく、夫と離れて一人で生活を送る妻としての苦悩や心情を歌で表現し続けた。
そして大正9年(1920年)6月、師である佐佐木信綱の勧めもあり、歌集『金鈴』を出版する。
この歌集は、当時、自己の権利を主張することが難しく、日々の生活に耐えながら生きていた多くの女性たちから大きな共感を得て、話題を呼んだ。
夫の良致が帰国
また、その年の3月には、武子が尽力していた京都女子専門学校(現・京都女子大学)が開学し、さらに12月には、イギリスに滞在していた良致が11年ぶりに帰国した。
帰国後、良致は光瑞の世話により正金銀行東京本店に勤務することが決まり、武子と良致は築地本願寺の近くで夫婦生活を再開した。
武子は夫に尽くし、良致もまた一途に武子を大切にしたという。
しかし、3年後の大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が東京を襲い、武子も被災した。
関東大震災と社会事業への献身
築地本願寺は焼失し、人々が逃げまどう中で武子はやっとの思いで避難した。
震災後、本願寺の嘱託医師や看護師たちと共に救護班が編成され、救護所が設置されたが、資金難などの問題から運営が困難になっていた。日比谷にあった診療所が資金不足で閉鎖に追い込まれた際、武子はその再開に向けて尽力し、3ヶ月後には本所緑町で診療所を開業することが出来た。
さらに武子は、震災孤児や頼れる人がいない被災した女性が共同生活をする施設『六華園』を設立し、自ら園長として運営にあたった。
また、刑務所から出所した女性たちの社会復帰にも尽力した。
武子の死とその後
大正14年(1925年)末、武子は慈善活動の一環として、病気で苦しむ貧しい人々のために歳末巡回施療を始めた。
また、昭和2年(1927年)7月には、歌文集『無憂華』を出版し、その印税の全額を病院設立の資金に充てるなど、福祉活動に力を注いだ。
しかし、その年の歳末巡回施療中に武子は体調を崩し、熱を出した。同行していた医師から風邪と診断され、気管支炎や扁桃炎の症状が見られたにもかかわらず、武子は巡回施療に参加し続けた。
昭和3年(1928年)1月18日、武子は医師から入院治療をすすめられ入院した。
そんな状況でも1月末に市村座で上演予定だった彼女の新作舞踊曲『四季』の切符の売れ行きを心配していた。その収益を診療所の資金に充てる計画だったのだ。
その後、武子は敗血症と診断され、輸血治療を受けたが、昭和3年2月7日に42歳でこの世を去った。
武子の訃報は各新聞、ラジオで大きく報道された。晩年の彼女は教団外の多くの人々からも親しまれる存在となっていたのだ。
その後、同年11月には歌集『薫染』が、翌昭和4年(1929年)12月には歌集『白孔雀』が出版され、武子の歌人としての功績がまとめられた。
そして昭和5年(1930年)、武子の夢であった病院が開業し、彼女の名著『無憂華』にちなんで「あそか病院」と名づけられた。
「あそか」という名称は、サンスクリット語の「アショカ」に由来し、病や苦しみを取り除きたいという願いが込められている。
参考 :
籠谷真智子「九條武子 その生涯とあしあと」同朋舎
中江克己「明治・大正を生きた女性」第三文明社
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