1947年(昭和22年)6月、高知から上京したやなせたかし氏は、恋人の小松暢さんと同棲生活をはじめました。
住まいは知人宅の子ども部屋で、3歳の男の子と一緒の生活。
二人だけの時間を求めて貯金を続け、ようやく引っ越した先は、住めるのか?と思うほどボロボロなアパートでした。
それでも、やなせ氏にとってこの日々は楽しく、心に残る時間だったといいます。
今回は、そんなちょっと風変わりな同棲生活と、嫁となった暢さんとやなせ氏の二人の母との人間模様に触れていきます。
上京し仕事は見つかったものの住む家がない

画像 : 1945.11.9塘沽(タンクー)からの引揚者達 public domain
恋人の小松暢さんに遅れること半年。
1947年(昭和22年)6月、上京したやなせ氏は、田辺製薬時代の先輩が立ち上げたデザイン会社「企宣社」で働くことになりました。
「企宣社」はデザインや意匠を専門とする会社で、建物こそバラックでしたが、戦時中に抑圧されていた文化や娯楽が芽吹き始めたこの時期、仕事は山ほどあったそうです。
とはいえ、復員兵や引揚者がどんどん押し寄せてくる東京は、とんでもない住宅難で、住むところを見つけるのは至難の業でした。
東京高等工芸学校時代の同級生の同僚は、会社の押入れにフトンを敷いて寝泊まりしていたほどです。
さすがに押入れに二人は無理だと思ったやなせ氏は、暢さんの下宿先に居候することになりました。
子ども部屋での同棲生活

画像 : イメージ(『住宅設計百案』関西信託調査課 昭和16)public domain
暢さんの下宿先は、東急東横線の大倉山駅から徒歩1分、新築、庭つき、風呂つきの平屋建てで、家主は暢さんの知人夫妻でした。
夫妻は生まれたばかりの赤ちゃんと一緒に寝ており、男の子の世話をする代わりに家賃は無料という条件で、暢さんは3歳の男の子の部屋に間借りしていました。
そこへ、やなせ氏が転がり込み、三人の共同生活が始まります。
子どもをお風呂に入れたり、トイレに連れていったりとかいがいしく世話をし、寝かしつけてから、やっと二人の時間が訪れるという生活でしたが、住む場所があるだけ幸せでした。
戦後のインフレは凄まじく、物の値段が2倍、3倍と急激に跳ね上がっていき、当然、二人の生活も楽ではありません。
代議士の秘書をしていた暢さんとやなせ氏、二人の給料をあわせて、なんとかギリギリの生活を送っていました。
おしゃれをしたくても服を買う余裕などなく、暢さんはいつも一張羅の青いジャンパーの着たきり雀でした。
そんな彼女を不憫に思ったやなせ氏は、自分の背広とオーバーコートを婦人服に仕立て直すという粋な計らいをしています。
暢さんは、涙ぐんで喜んでくれたそうです。
それ以外の二人の財産は実にささやかなもので、やなせ氏の財産は軍隊時代の飯盒ひとつ。
これは東京で野宿をする際に役立つだろうと、上京する折に持ってきたものでした。
一方、暢さんはといえば、なぜかいちごジャムの大きな缶詰をこちらもひとつだけ。
「いざとなったら、これを食べればいい」と、二人はその缶詰を命綱のように大事にしていたそうです。
唯一の家財道具は小さなテーブルで、それを子どものベッドのそばに置き、食卓や仕事机として使っていました。
将来のことはまるで予想できず、取り柄は若さだけ。
貧しいけれど、この同棲生活は、二人にとってかけがえのない日々だったのでした。
「お化けアパート」で二人きりの生活

画像 : イメージ(『名もなく貧しく美しく』1961年)public domain
1947年(昭和22年)10月、やなせ氏が日本橋三越の宣伝部へ入社したのを機に、二人は東京・中目黒の焼け残りのボロアパートへと引っ越しました。
ついに、二人だけの生活がはじまったのです。
しかし夢の新居は「お化けアパート」と命名するほどの老朽ぶりでした。
六畳一間に押し入れと台所があり、トイレは共同、お風呂は当然ありません。
アパートの階段は、ちょっと油断すると踏み抜いてしまうようなスリル満点の代物で、共同トイレにいたっては、屋根にぽっかりと穴があき、雨の日には傘をさして用を足さなければなりませんでした。
しかし、住環境は思った以上に良く、表通りを一歩入れば田園風景が広がるのどかな場所で、南向きの日当たりの良いその部屋には、窓を開ければ気持ちのいい風が入ってきます。
肉屋、八百屋、郵便局と生活に必要な店舗がすべてそろっており、二人で銭湯の帰りに柿を買って、かじりながら帰ったそうです。
後年やなせ氏は、当時の生活が一番楽しかったと振り返っています。
「貧しかったけれど、あのころが一番よかったかもしれません。よりそって助けあいながら、雨もりのひどいお化けアパートでの暮らしは、毎日とてもうれしくて楽しかった。そのうちカミさんはたくましくなり、あごで使われるようになるんですけどね。」
やなせたかし著『痛快第二の青春』より
やなせ氏の伯母・柳瀬キミさんと暢さん

画像 : イメージ(「戸田家の兄妹」1941年)public domain
1949年(昭和24)年、やなせ氏と暢さんは入籍し、正式な夫婦となりました。
当時の結婚は、当人同士だけではなく、家と家との結びつきを意味していました。
結婚を機に、盆暮れの付け届けやあいさつ、慶事に弔事と双方の付き合いがはじまるのですから、お相手の家のことを知らぬ存ぜぬでは通りません。
入籍の話を聞いたやなせ氏の育ての親である伯母・柳瀬キミさんは、医院に出入りしていた薬屋に、それとなく暢さんの家のことを調べて欲しいと依頼しています。
偶然にもその薬屋は暢さんの実家の親戚で、彼から詳しい話を聞くことができ、キミさんは安堵したのでした。
長年やなせ氏の秘書を務めた越尾正子さんによると、暢さんはキミさんと会ったことがあり、二人はさまざまな話をしていたそうです。
特に越尾さんが暢さんから聞いたのは、やなせ氏の実母・登喜子さんの話でした。
登喜子さんの再婚によって、伯父さんの家に引き取られた子供時代のやなせ氏が、いつまでも寂しさをぬぐえず、気持ちの整理ができなくて苦しむことになった原因について、
「お母さんが、ごめんの家にうちの人を預ける時、曖昧な言い方をせず、自分が結婚するためには、子供を置いていかなければならないことをはっきり子供に伝えないのがいけなかった」
越尾正子著『やなせたかしのしっぽ』より
と暢さんは考えており、彼女にしては珍しく、何度も越尾さんにこの話をしたそうです。
おそらく暢さんは、扱いにくい生さぬ仲の子どもを育てたキミさんの苦労を、心から思いやっていたのでしょう。
そして、
「ごめんの伯母さんの難しい立場を、少しでも楽にしてあげたかったという奥さんの強い思いを感じた。」
越尾正子著『やなせたかしのしっぽ』より
越尾さんはそう綴っています。
暢さんが登喜子さんと面識があったかどうかは分からないそうですが、血はつながっていなくても、やなせ氏の育ての親であるキミさんを義理の母として、暢さんは敬愛していたのかもしれません。
参考文献
越尾正子著『やなせたかしのしっぽ』小学館
やなせたかし著『アンパンマンの遺書』岩波書店
やなせたかし著『痛快!第二の青春 アンパンマンとぼく』講談社
文 / 草の実堂編集部
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