朝ドラ「ばけばけ」では、主人公トキの本当の両親が判明しました。
雨清水夫妻がことのほかトキを可愛がっていたのは、「無類の親戚好き」ではなく、わが子への愛情ゆえだったのです。
実の両親が分かると同時に、トキには兄弟ができました。
その一人が、板垣李光人さん演じる雨清水三之丞です。
雨清水家の三男である彼は、兄の出奔により急遽社長代理を任ぜられてしまいます。右も左も分らぬまま、押し付けられた役目に不安とイライラが募る三之丞。
史実でも小泉家の三男・小泉藤三郎氏は、長兄の出奔により小泉家の戸主となるのですが、彼はとにかく働くことが嫌いで、戸主としての役目を果たさないどころか、金に困った末、家族に黙って先祖代々の墓石まで売り払ってしまうような人でした。
トキのモデル・小泉セツさんを長年にわたって困らせたという藤三郎氏。
今回は、彼にまつわるエピソードを紹介します。(以下敬称略)
出奔した長兄に代わり小泉家の跡継ぎとなった藤三郎

画像 : 武家屋敷の長屋門(柏原藩織田家旧邸)wiki c 663highland
販路を拡大し順調だった小泉家の織物会社は、次第に売り上げが低迷するようになり、「士族の商法」の例にもれず、倒産の憂き目にあってしまいます。
小泉一家は家来を住まわせていた門長屋へと移り住み、その後も親類縁者の家へ身を寄せながら、なんとか暮らしを立てていました。
しかし、明治19年1月、次男の武松が19歳の若さで亡くなり、一家の大黒柱である家長の湊(みなと)も、リウマチを患ってしまいます。
家老の娘として育てられ、家事などやったこともない奥方のチエに夫の看病ができるはずもなく、セツは機織りの仕事の傍ら、湊を献身的に看病するのでした。
苦しい生活ながらも、なんとか借金をせずにやりくりをしていた小泉家でしたが、頼りにしていた長兄・氏太郎がまさかの出奔。
沈む船から逃げ出すネズミのごとく、恋仲の町娘と手に手を取って出て行ってしまったのです。
こうして兄二人がいなくなり、三男の藤三郎に小泉家の跡継ぎというお鉢が回ってきたのです。
鳥の飼育に夢中になり働かない藤三郎に父親がブチ切れ

画像 : 山本昇雲「子供風俗画帖 子供あそび大決戦」(1906)public domain
小泉湊は、「これからの時代には学問が必要だ」という先進的な考えの持ち主で、幼い藤三郎に読み書き算盤を仕込み、学校へ行くことも許していました。
しかし、親の心子知らずで、勉強嫌いの藤三郎は、学校へ行くふりをしては山へ行き、大好きな小鳥を捕らえる日々を送っていました。
しかもただ捕まえるだけでなく、上手に飼育し繁殖させていたというのですから、才能というのはどこにあるのかわかりません。
しかし、羽振りが良い時ならまだしも、家産が傾いた小泉家では彼の才能は歓迎されませんでした。
父親が病床に就いてもなお、藤三郎の小鳥愛はとどまるところを知らず、彼は毎日毎日小鳥集めに熱中し、南向きの廊下は山積みになった鳥かごに占領されてしまう始末。
ピーチクパーチクとさえずる鳥たちの世話に嬉々として興じている藤三郎を、病床の湊はどんな気持ちで見ていたのでしょう。
ある日、すでに一人では厠にも行けないほど病に侵された湊が立ち上がり、柱にかけてあった乗馬用の鞭を手にしました。
そして、よろよろと廊下まで歩いて行くと、鳥かごという鳥かごを片っ端から庭に蹴落としはじめます。
そして、駆け付けた藤三郎を見るや襟首をむんずとつかみ、「この親不孝者め!そちの腐れ根性を打ちすえてくれるわ」と叫び、鞭で藤三郎を滅多打ちにしたのです。
あばらの浮き出た胸をゼイゼイいわせながら、鬼の形相で鞭を振るう湊。病身の彼のどこにこんな力があったのか、息子の襟首をつかんで離さない父親を、一家総出で引き離し、なんとか寝床へと連れ戻したそうです。
その後、病状が急激に悪化し、明治20年5月、小泉湊は50歳で帰らぬ人となりました。
東京の小泉家を訪れた藤三郎 八雲の逆鱗に触れる

画像 : 新橋停車場(明治33年頃)public domain
明治33年の夏、藤三郎は東京の牛込富久町にある小泉八雲宅を訪れ、応対に出た姉であるセツに向かって、こう言いました。
「特に目的があって上京したわけではなく、まず東京見物でもさせてもらって、それからどこか楽で割の良い就職口があったら世話してほしい。もしなければ、東京に飽きるまでここに無条件で置いてもらいたい。飽きなければまず半永久的に……。」
随分と虫のいい頼みごとを並べたものですが、八雲が藤三郎のことを快く思っていないことをセツは知っていました。
以前、金に困った藤三郎が小泉家の祖先代々の墓石を売りとばしたため、八雲は心底藤三郎を軽蔑しており、その憤りは未だ冷めていなかったのです。
とはいえ、血のつながった兄弟を無下に追い返すこともできず、セツは藤三郎を書生部屋へ押し込め、八雲の前に姿を現すなときつく言い含め、内緒で家に置くことにしたのでした。
しばらくの間はおとなしくしていた藤三郎でしたが、なかなか主人に会わせてもらえないことにしびれを切らし、自分から八雲の前にノコノコと出て行ってしまいます。
しどろもどろの挨拶をし、神戸で手に入れたという舶来のライターを八雲にうやうやしく渡そうとしますが、八雲は受け取らず、「働き盛りの大の男が、女の身寄りを当てにして厄介になろうと訪ねて来るのは意気地無しの骨張だ。恥を知れ」と頭ごなしに叱りつけました。

画像 : 小泉八雲(1889年頃)public domain
八雲は、藤三郎が以前営んでいた小鳥の商いや、川上音二郎一座で役者になろうとしていたことを引き合いに出し、中途半端はいけないと諭すのですが、のらりくらりと言い訳を繰り返し、まったく働く気のない藤三郎に堪忍袋の緒が切れたのでしょう。
顔面蒼白になり、
「あなた武士の子です。先祖の墓食べるの鬼となりましょうよりは、なぜ墓の前で腹切りしませんでしたか?日本人ないの日本人は私の親類でありません。さよなら、直ぐ帰りなさい!」
小泉一雄著『父小泉八雲』より
と叫んだのでした。
八雲に怒鳴られ、セツに引っ張られて茶の間へ引き下がってからも、藤三郎はグダグダと不平不満をこぼしていました。
小泉本家の継承者である自分に対して八雲の言いようはあまりにもひどい。
裏でセツが八雲に入知恵してあんな風に言わせたのだろうという耳を疑うような言葉に、セツも黙ってはいません。
「馬鹿ッ! お黙りッ!私が入知恵したとは何ですッ!会ったら叱られるにきまっとるから気兼ねしいしいかくまっといてあげたのが解らんかいね。それに本家、本家って何が本家ですッ!本家のお母様は今いったい誰が養っていますか? いったい、あんたは本家らしい事を一度でもして見せましたかッ? 先祖の墓石まで食べて、それで何が立派な本家の旦那ですッ!」
小泉一雄著『父小泉八雲』より
小泉家が事業に失敗し破産してからというもの、仕送りをして実母チエを支えていたのは、他でもないセツだったのです。
藤三郎は、セツのあまりの剣幕に平謝りに謝り、八雲家をあとにしました。
その後、小泉藤三郎は関西へ移り、大正5年、46歳で亡くなっています。
武家で大事に育てられる男児は、家の後継者である長男のみ。
三男として生まれた藤三郎は、ずっと気軽な身分でいたかったのかもしれません。
期せずして戸主となっても、自分の生きたいように生きた人でした。
参考文献
小泉一雄『父小泉八雲』小山書店, 1950. 国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
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