ばけばけ

『ばけばけ』ラフカディオ・ハーンが生涯思い続けた母・ローザとは

NHK朝ドラ「ばけばけ」で語られた「大雄寺の子育て幽霊」。

それは、亡くなってなお赤子を思い、夜ごと飴を買いに現れる母の切ない物語です。

この伝承に心を揺さぶられたラフカディオ・ハーンは、怪談『水飴を買う女』を書き残しました。

しかし、彼は赤子が飴屋に引き取られ幸せに暮らすという結末には触れず、ただ一言「母親の愛は、死よりも強かったのです」と物語を結んでいます。

幼い頃に母と生き別れたハーンにとって、この幽霊は、失われた母の面影そのものだったのかもしれません。

ハーンが生涯忘れ得ぬ存在として心に抱き続けた母・ローザとは、どんな女性だったのでしょう?

ギリシャ娘とアイルランド男の駆け落ち婚

画像 : ギリシャのイオニア諸島 public domain

ラフカディオ・ハーンの父、チャールズ・ブッシュ・ハーンは、アイルランド出身の軍医でした。

ヴィクトリア女王のもと大英帝国が領土を拡大していた時代で、チャールズは、ジブラルタルを皮切りに、ギリシャや西インド諸島など赴任地を転々とする生活を送っていました。

1848年、彼はギリシャ西部のイオニア諸島にあるキシラ島へ赴任します。

そこでチャールズは、島の旧家に生まれた美しい娘ローザ・カシマチと出会いました。

ローザの家は海を見渡せる丘の上にあり、家の前の城塞のなかには、チャールズの勤務先やローザが通うギリシャ正教の教会があったのです。

二人は恋に落ち、やがて結ばれました。

しかし当時、イオニア諸島はイギリスの半植民地状態にあり、反英感情が強まっていました。

そのためローザの家族は、二人の結婚に猛反対します。

やむなく二人は駆け落ち同然で、チャールズの次の赴任地であるレフカダ島へと向かったのでした。

母・ローザとの幸せな日々

画像 : レフカダ島の海岸 wiki c Maju603

1850年6月27日、二人の間に男の子が生まれました。

その子は、レフカダ島にちなんでギリシャ語でパトリキオス・レフカディオス・ヘルン(※後のラフカディオ・ハーン)と名付けられます。

父親は赴任地を転々としていたため、レフカディオスが誕生した時も不在でした。

生後1ヶ月の頃、1歳の兄ロバートが病気で亡くなり、その後2年間、レフカディオスは母と二人きりで暮らしました。

明るい太陽と月、真っ青な空と海に囲まれた島で母親と暮らした日々は、幼い彼の心に深く刻まれ、一生忘れることのない幸せな記憶となったのです。

ダブリンで精神を病んだ母

画像 : ダブリン城 wiki c Donaldytong

1852年、2歳になったレフカディオスと母ローザは、チャールズの故郷アイルランドのダブリンへと呼び寄せられました。

その頃、父チャールズは西インド諸島に赴任しており不在だったため、パリで画家をしていたチャールズの弟リチャードとギリシャ語の通訳が同行しました。

長い船旅を経て、父方の祖母エリザベスの家に到着します。

この時から、「パトリキオス・レフカディオス・ヘルン」は、「パトリック・ラフカディオ・ハーン」と呼ばれるようになりました。

ハーン家は「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる支配階級に属し、軍人や宗教家を輩出してきた名家でした。

誇り高き少数エリートの彼らと、ギリシャから来た母子の生活はあまりにも異なっていました。

熱心なギリシャ正教の信徒である母、金のイヤリングをつけた幼い子ども、午後になると必ず昼寝をする母親。

二人にとって当たり前の生活習慣が、ハーン家の人々には不可解なことだったのです。

こうして母子とハーン家の間には大きな壁が立ちはだかり、互いの理解を阻んでいきます。

やがてローザは精神の均衡を失い、言葉も習慣も異なる土地で頼れる人のいない生活にふさぎ込むようになりました。

燦々と太陽の光が降り注ぐ温暖な島と、寒く曇りがちな北国という環境の違いも、彼女を苦しめる要因だったのでしょう。

ローザは、アイルランドの天候の悪さや英語の難しさを嘆きながら日々を過ごしました。

そんな彼女を見かねて、母子を引き取ると申し出たのがエリザベスの妹サラ・ブレナンです。

彼女は裕福な未亡人で子どもはなく、一族の中で唯一カトリック信徒でした。

異文化に寛容なサラは、ローザとラフカディオを温かく迎えてくれました。

サラの家に移ってからローザは次第に落ち着きを取り戻しつつありましたが、それでも窓から飛び降りようとしたり、発作的にラフカディオを叩いたりすることもあったそうです。

夫との再会で錯乱状態に陥ったローザ

画像 : ブレナン夫人と8、9歳頃のハーン『小泉八雲全集』別冊,第一書房,昭和5年

ローザとラフカディオがダブリンへ来てから1年2ヵ月が経った頃、父のチャールズがカリブ海のグレナダから一時帰国しました。

その夜、ローザは精神錯乱状態に陥ります。

4年ぶりの夫との再会は、すでに心の均衡を失っていた彼女に強い不安を与え、さらに追い詰めたのです。

1854年、チャールズはクリミア戦争に出征し、3人目の子どもを妊娠していたローザは出産のため、ギリシャへと帰ることになりました。

ローザの帰国と同時に、チャールズは結婚の無効を裁判所に申し立てます。

そして離婚が成立すると、初恋の女性と再婚し、インドへ赴任しました。

一方、ローザもまもなく再婚しましたが、その条件は二人の子どもを手放すことでした。

生まれたばかりの弟は、乳母とともにアイルランドへ送り返され、叔父に引き取られました。

一人残された4歳のラフカディオは、そのままブレナン夫人の家で暮らすこととなり、これが母ローザとの永遠の別れとなったのです。

ローザの死

画像 : コルフ島(ケルキラ島)市街 wiki c Edal Anton Lefterov

後にローザは、ダブリンを訪れラフカディオと弟を探しましたが、子どもたちに会うことは許されず、失意のうちに帰国の途についています。

その後、再婚相手との間に4人の子どもが生まれましたが、ローザは心の安らぎを得ることはできませんでした。

精神を病み、ギリシャのコルフ島にある精神病院で10年を過ごした後、1882年に59歳で亡くなりました。

ラフカディオは、この事実を知ることなく生涯を終えています。

弟ジェイムズとの文通、母への尽きぬ思い

画像 : イコン『ウラジーミルの生神女』public domain

19歳でアメリカに渡ったラフカディオは、数々の苦労を経て新聞記者として成功を収めました。

そんな彼のもとに、ある日、生き別れた弟から一通の手紙が届きます。

生まれてすぐアイルランドへ送り返された弟ジェイムズは、16歳までイングランドの学校へ通い、1871年に移民としてアメリカへ渡っていました。

彼は小作農として働き、妻と娘と一緒にオハイオ州で暮らしていたのです。

二人の間で文通が始まり、ジェイムズは「自分が旅費を工面するから会いに来てほしい」と何度も申し出ましたが、ラフカディオが弟を訪れることはありませんでした。

ラフカディオは手紙の中で、「どんなにお金がかかってもいいから母の写真が欲しい」、「私に良いところがあるとすれば、それは母から受け継いだものだ」と母への思慕を綴っています。

4歳で生き別れて以来、彼は終生ローザを思い続けました。

彼の記憶におぼろげに残っていたのは、母の美しい小麦色の肌と小鹿のようにうるんだ茶色の瞳でした。

幼い頃、幼子イエスを抱く肌の浅黒いマリアのイコンを目にしたとき、彼はそれを母と自分の姿だと思ったといいます。

ヨーロッパ、アメリカ、西インド諸島、そして日本へと続いたラフカディオ・ハーンの異文化探求の旅は、母の面影を追い求める旅でもあったのかもしれません。

参考 :
田部隆次『小泉八雲』中央公論新社
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部

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