水上恒司さん演じる村山愛助。
NHK「ブギウギ」公式サイトによると、スズ子の人生に大きな影響を与える運命の相手となるそうです。
今回は村山愛助のモデル・吉本穎右(よしもとえいすけ)の生い立ちや笠置シヅ子との出会い、穎右の叔父・林弘高について、史実を元に見ていきたいと思います。
吉本穎右(よしもとえいすけ)の生い立ち
吉本穎右は、大正12年(1923年)10月26日、吉本興業創業者の吉本吉兵衛(通称・泰三)、せい夫妻の次男として大阪府で生まれました。
父親の通称・泰三から一字をとって、泰典と名づけられましが、昭和18年(1943年)20歳のときに通名であった穎右(えいすけ)に改名しています。
吉兵衛とせいは2男6女の子どもに恵まれましたが、無事成人したのは4人。長男は穎右が生まれる4年前に2歳足らずで亡くなっており、穎右は夫妻にとって待望の男児でした。
穎右誕生の翌年、大正13年(1924年)2月、吉兵衛が38歳の若さで帰らぬ人となり、せいは生まれて間もない穎右に家督を相続します。
父親の顔を知らないことへの不憫さと子どもたちの多くが早世したこともあって、せいは体が弱かった穎右を溺愛していました。たった一人の男児である穎右は、せいにとって目に入れても痛くない存在でした。
穎右は吉本興業の跡取りとして大切に育てられ、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)を卒業し早稲田大学へと進学します。
上京後の半年間、帝国ホテルから大学へ通うというお坊ちゃんぶりでした。
東京には、せいの実弟である叔父の林弘高がおり、弘高は単身上京した穎右の面倒をみてくれました。
吉本の東京支社長として辣腕を振るうおしゃれでモダンな叔父。彼と穎右は気が合ったようで、よく相談に乗ってもらったといいます。
また弘高のもとには、せいから頻繁に穎右の近況を訪ねる電話がかかってきました。彼女は、自分と同じ病を患っている息子の体調をいつも心配していたのです。
昭和21年(1946年)穎右は、大阪の吉本興業から正式に分離独立した東京の「吉本株式会社」に就職しました。
林弘高は、吉本興業の跡取りである穎右に身をもって興行の世界を知って欲しいと考え、東京吉本の本拠地「浅草花月劇場」の支配人に穎右を抜擢。さらに、横浜の劇場や映画館を運営する「東映興業株式会社」の取締役に就任させています。
23歳の吉本穎右は、母や叔父の期待に応えようと懸命に仕事に励みました。
笠置シヅ子と吉本穎右の出会い
昭和18年(1943年)6月、名古屋の太陽館に出演する予定だった笠置シヅ子は、御園座で公演している知人の辰巳柳太郎の元を訪れました。
一言挨拶をしようと楽屋に入ると、辰巳はファンの芸者衆に取り囲まれ大騒ぎ。挨拶もそこそこに廊下に出ると、ひとりの青年が困ったようにウロウロしています。
その青年こそが吉本穎右でした。
笠置シヅ子の自伝によると、穎右の第一印象は、
“ジェームズ・ステュアートのように端麗な近代感に溢れ”、“グレイの背広をシックに着こなした長身の青年”
で、シヅ子は彼に楽屋に入るよう声をかけようとしましたが、
“眉目秀麗な貴公子然たるタイプに圧倒されて、ちょっと言葉が出なかった”
と声もかけられないほど衝撃的な出会いだったようです。
翌日、シヅ子が知り合いの映画俳優・岡譲二が宿泊している旅館を訪れたところ、そこで再び青年を見かけます。その旅館は吉本興業の芸人たちの定宿でした。
その日の太陽館での公演後、楽屋に吉本興業の名古屋会計主任がやって来ます。彼の後ろには例の青年が立っていました。
「笠置さん、今日はぼんに頼まれて来ましたんや。ぼんはあんたのファンだんね」
会計主任はそう言って、青年の名前は吉本穎右で早稲田大学の学生であり、シヅ子の大ファンの彼は吉本興業の御曹司だと紹介してくれました。
同じ大阪出身の二人は話がはずみ、偶然にも翌日にシヅ子は神戸へ、穎右は大坂へ行く予定だったことが分かります。シヅ子は大阪までの同行を提案しますが、穎右は断わりました。
翌日、名古屋駅に到着したシヅ子を出迎えたのは、なんと穎右でした。彼は一晩考えた末、シヅ子と一緒に行くことを決めたと言うのです。
穎右は、結局シヅ子とともに神戸まで行き、ひとり大阪へ戻って行きました。
こうして二人の交際は始まりましたが、当時笠置シヅ子は29歳、吉本穎右は20歳。年の差を考えるとシヅ子は当初、恋愛対象として穎右を見られなかったようです。
村山興行東京支社長・坂口のモデルは林弘高
上京した穎右の世話を焼いてくれた林弘高は、1907年(明治40年)大阪府生まれ。穎右の母・吉本せいの実弟です。
せいは会長就任後、実務から離れ、弘高の兄・林正之助が吉本興業社長に就任。弘高は専務として東京の興行を取り仕切っていました。正之助は、せいの10歳年下、弘高は18歳年下です。
大正13年(1924年)、弘高は中央大学法学部へ進学。昭和3年(1928年)吉本の東京進出に伴い営業責任者に就任し、昭和5年(1930年)浅草に劇場「萬成座」を開場します。
昭和7年(1932年)には、吉本興業合名会社東京支社長に就任しました。
当時の東京吉本には柳家金語楼、柳家三亀松、石田一松など多くの人気芸人がいましたが、彼らは若輩ながら日々奮闘している弘高に敬意を表して、弘高のことを「若」と呼んでいたそうです。
昭和9年(1934年)弘高は、アメリカのレビュー団「マーカス・ショー」を招聘し、興行を大成功させます。
その後も吉本のレビュー団「吉本ショウ」の結成や浅草や横浜を中心とした多数の劇場や映画館の経営、映画製作など名興行師、名プロデューサーとして多岐にわたり多くの功績を残しました。
太平洋戦争末期、東京大空襲で住む家を失った知人たちを、弘高は荻窪の自宅に招き入れます。その中には甥の吉本穎右も含まれており、弘高は家の裏手にある洋館に穎右を住まわせました。
そこへ友人の映画プロデューサー・杉原貞雄の頼みで、笠置シヅ子も預かることになります。
他の家族との共同生活でしたが、穎右とシヅ子は半年間この洋館で暮らしました。笠置シヅ子は「この半年が人生で最も幸せを感じた時だった」と後に語っています。
ただし、終戦前後の混乱期、弘高は会社のために奔走しており、穎右とシヅ子の逢瀬を知る由もなかったようです。
参考文献:
青山誠著『笠置シヅ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記』.KADOKAWA
竹中功監修,小谷洋介著『吉本興業をキラキラにした男 林弘高物語』.KKロングセラーズ
この記事へのコメントはありません。