村山興業の女社長、村山トミのモデル・吉本せい。
夫と二人三脚で始めた寄席を大企業「吉本興業」へと成長させ、「女今太閤」「女傑」と呼ばれた人物です。
「吉本興業」の跡継ぎを約束された、せいの息子・吉本穎右が恋に落ちたのは、笠置シヅ子でした。
吉本せいは、穎右とシヅ子の結婚に強く反対しましたが、その理由は何だったのでしょうか?
【理由1】同業者の嫁を受け入れることができなかった
・興行の世界を知り尽くしていた吉本せい
昭和18年、笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)の大ファンだった吉本穎右がシヅ子と出会い、翌年には結婚を前提とした交際をしていることは、当時マスコミが競って書き立てたこともあって、穎右の母・吉本せいの知るところとなります。
吉本せいは二人の交際に猛反対しますが、その理由の一つとしてささやかれたのが「せいが同業者の嫁を受け入れられなかった」という意見です。
夫と二人三脚で始めた寄席の経営を振り出しに、金の力を最大限生かして買収を重ね、大阪から全国へと一大企業・吉本興業を築き上げた吉本せいは、興行界の裏の裏まで知りつくしていました。
当時、黒い噂がつきまとう興行界には胡散臭いイメージがあり、芸人も芸人を使った興行も世間からは低く見られていました。自分の置かれた立場を十分理解していたせいは、事業の成功だけでは手に入れられない社会的地位を欲するようになります。
吉本せいは日本赤十字社や愛国婦人会へ多額の寄付をしています。また満州駐屯軍や国内の養老院に慰問のため芸人を派遣したり、無縁仏の石碑を建立したりといった社会貢献もしていました。
こうした活動を行っていたのは、自身の信心深さや世話好きな性格に起因することは間違いありません。
しかし一方で、この活動は興行という仕事のブラックなイメージを払しょくする役割も担っていました。
長年の功績が認められ、吉本せいは昭和3年に「紺綬褒章」を、昭和9年には大阪府から「節婦」として表彰を受けています。
「紺綬褒章」表彰の後、マスコミがせいのことを「女小林一三」や「女今太閤」と呼んで、彼女の成功を美談として盛んに書いたことを考えると、せいの活動にはイメージアップの効果が十分にあったようです。
・当時の結婚事情
“たぶらかされてるだけや!ボンはまだまだ世間知らずや。向こうは手練れの歌手だっせ。”
“そもそも後継ぎと歌手の結婚なんてありえまへんわ!”
当時穎右は20歳の学生で、シヅ子は9歳も年上。ドラマの中で、村山興業東京支社長の坂口が言ったこの言葉が、シヅ子たちに対する世間一般の考え方だったのでしょう。
当時、結婚は家の継続を第一の目的としていました。家業を継ぐことになる長子の結婚は親の影響力が強く、結婚相手がふさわしいかどうかは親が判断します。
判断基準は、家業の規模や経済力といった「家柄」であり、同程度の家柄同士で結婚するのが普通でした。
自由恋愛や恋愛結婚は、一部の知識人の間でもてはやされていたもので、恋愛結婚が見合い結婚を抜いて主流となるのは、1960年代後半。まだまだ先のことです。
内助の功で夫を支え、夫の死後は弟たちの力を借りながら一大企業「吉本興業」を築いたせいは、きれいごとばかりでは務まらない興行の大変さや社長という肩書がいかに重いものかを、誰よりも身に染みて分かっていました。
そのため、体の弱い穎右が重圧に耐えながら、会社をさらに飛躍させていくためには、息子をしっかり支え、家を守ってくれる嫁が必要だと考えたに違いありません。
会社の後継者である息子の嫁には、黒いイメージのつきまとう興行の世界にどっぷり浸かった歌手ではなく、「吉本家にふさわしい家柄」の女性をもらいたい。
せいは、そう考えていたのかもしれません。
【理由2】相手が誰であっても息子の恋愛を許せなかった
せいは10人の子どもを出産しましたが(戸籍上は2男6女の8人)、無事成人したのは4人です。
長男は穎右が生まれる4年前に2歳足らずで亡くなっており、穎右は夫妻にとって待望の男児でした。
穎右誕生の翌年、大正13年(1924年)2月、夫・泰三が帰らぬ人となり、せいは生まれて間もない穎右に家督を相続しています。
子どもたちの多くが早世したことや父親の顔を知らないことへの不憫さ。なによりも自分と同じ肺結核を持病に持つ穎右に対して、丈夫に産んであげられなかったという負い目もあったのかもしれません。
せいは、身体の弱い穎右を溺愛して育てました。末っ子でたった一人の男児である穎右は、せいにとって目に入れても痛くない存在でした。
そんな息子が勝手に結婚を決めたとあっては、母親として心中穏やかであるはずがありません。
エッセイストの矢野誠一氏は、著書『女興行師 吉本せい』の中でせいのことを次のように書いています。
“吉本せいは、息子穎右の恋愛そのものが許せなかったのである。相手が誰であろうと問題ではなかった。”
“嫉妬心の人一倍強かった吉本せいは、(中略)溺愛していたわが子の恋愛に嫉妬の炎を燃やしたのである。壮絶な近親憎悪であった。許せなかったのは、笠置シヅ子ではなく、わが子吉本穎右であった。”
せいは、穎右に裏切られたような気持ちだったのかもしれません。
穎右が亡くなった3年後、吉本せいは亡くなります。息子の死に打ちのめされ、持病の肺結核が悪化した結果でした。
当初、ふたりの結婚をなかなか認めようとしなかったせいは、徐々に心を開いていったと言われています。
ただし、笠置シヅ子が吉本せいと初めて会ったのは、終戦後、穎右が亡くなってからでした。
参考文献:矢野誠一『女興行師 吉本せい』.筑摩書房
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