ドラマ『ブギウギ』では、仕事をしながら手のかかる乳幼児を一人でひたむきに育てているスズ子の様子が描かれています。
粉ミルクや紙おむつもなかった当時、育児を一人でこなすのは、現代と比べ物にならないくらいハードだったことでしょう。
今回は笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)のワンオペ育児に関するエピソードをご紹介します。
幕間に授乳、乳飲み子を抱えたブギの女王
放送局に、劇場の楽屋に、ブギの女王笠置シズ子の在るところ必ず愛嬢栄子ちゃんが寄りそっている。
先年の吉本興業の御曹司栄助氏とのロマンスは、ファン周知のとおりで、栄助氏亡き後、遺児栄子ちゃんを片時も手離さず、女の細腕で(?)身を以て育てる母性愛には涙ぐましいものがある。(『富士』3(1),世界社,1950-01. 国立国会図書館デジタルコレクション)
雑誌『富士』(1950年1月号)の『この親にしてこの子あり』という記事の一節です。
最愛の人を失いシングルマザーとなった笠置シヅ子は、歌手をしながら子どもを育てていました。記事にもあるように舞台出演のときには、楽屋に愛児を連れて行っています。
劇場では、歌と歌の間に楽屋に走って戻り、子どもをあやしておむつを替え、時には授乳をし、また舞台へと駆け戻って行くあわただしさでした。
1948年(昭和23年)7月発売の雑誌『鏡』で、作家の林芙美子と対談した際、シヅ子は電車の中での授乳や子どもが泣き出すと『東京ブギウギ』を歌うという話をしています。
“並木一路さんがご近所なのですが、私が電車の中でエイ子におっぱいをやっているのを見て胸が痛くなったと言われましたけど、私は一向に平気です。”
“うちの子は『東京ブギウギ』が好きで、泣き出すと電車の中ででも「トーキョ ブギウギ……」って歌ってやるとじきに泣き止んでしまうんです。他の歌じゃ駄目なんですよ。”
二人の育児談義は続き、林の子どものごっご遊びが「先生、原稿5枚お願いします」という作家と編集者のやり取りだというのに対して、
“うちの子は、私がちょいと席をはずしても「ハイチャイ ハイチャイ」親譲りの三枚目で困ります。”
とシヅ子は答えています。
「ハイチャイ」とは「はい、さようなら」の意味で、幼児の使う言葉です。シヅ子が下がり眉を一層下げて談笑している様子が目に浮かびます。
当時『東京ブギウギ』の大ヒットで「ブギの女王」と呼ばれたシヅ子が、気取ることも偉ぶることもなく、子どもが泣けば電車の中でも授乳したり、あやしたりと懸命に育児をしていたことが偲ばれます。
シヅ子が出産した当時の育児とは?
子育ての歴史の中で、敗戦から1950年代にかけての時期は、生活の窮乏や食糧難により、もっとも苦難に満ちた時代と言われています。
シヅ子が出産した1947年(昭和22年)すでに保育所はありましたが、シヅ子は穎右の忘れ形見を他人に託すことはせず、自分の手で育てていました。
孤軍奮闘するシヅ子を見ていると、せめて育児用の粉ミルクは使えなかったのかと老婆心ながら案じてしまいますが、粉ミルクが広く使われるようになるのは1950年代。シヅ子が授乳していた頃は、まだ普及していませんでした。
日本で最初の育児用粉ミルクは、和光堂薬局が「キノミール」という名で1917年(大正6年)に販売しています。しかし、高価なことや母乳に代わるほどの栄養がなかったことなどから一般化しませんでした。その後改良が加えられ、1950年(昭和25年)頃から粉ミルクが続々発売されるようになります。
また、本格的に乳幼児用の紙おむつが使われるようになったのは、1977年(昭和52年)にアメリカから輸入された紙おむつが発売されてからです。1950年代前半に日本で初めて紙おむつが発売されましたが、高価なのと当時の日本人に使い捨てという習慣がなかったため普及しませんでした。
布おむつは汚れるたびに洗濯しなければならず、しかも洗濯機が普及する昭和30年代までは、たらいに洗濯板が一般的。大量のおむつの洗濯は、「洗多苦」と揶揄されるほどの重労働でした。
シヅ子も子どもを寝かしつけてから、おむつを洗っていたのかもしれません。
笠置シヅ子を支えた人たち
“養父以外には一人の縁者もなく、彼女は愛児を抱えて全く孤独の境涯にある。
その一人ぼっちの彼女を血縁のごとくいたわり、守っているのが服部良一、山内義富、櫻井孝友、前田米一の諸氏で、櫻井博士を除いて他の全部は彼女と同じ大阪人である。“『歌う自画像 : 私のブギウギ傳記』
上記の4人のうち、家族同様の温かさでシヅ子を支えたのがマネージャーの山内義富でした。
戦後の住宅難からシヅ子は山内一家と同居しており、彼はシヅ子の庇護者となっていました。子どもが病気になった時など、どうしても仕事に連れて行けないときは、マネージャーと彼の家族を頼っていたようです。
また、師弟関係にあった服部良一もシヅ子と家族ぐるみの付き合いをしており、シヅ子が巡業に出る時には、幼い娘を服部家に預けて行きました。
意外なところでは、淡谷のり子もシヅ子の育児を手伝っています。楽屋でおむつを替えてあげ、ぐずって泣き止まなかったのでしょうか、自分の乳房を含ませ寝かしつけたこともあったそうです。
シヅ子のワンオペ育児は、孤立無援ではなかったのです。
芸能人の子ではなく、平凡な家庭の子として育てる
笠置シヅ子は、「ブギの女王」として最も売れていた時代、自分の子どもを新聞や雑誌などに掲載することを厭わず、テレビにも出演させていました。
しかし、小学校1年生のときに起きたある事件をきっかけに、メディアへの露出は一切断わり、芸能人の子だからと特別扱いはせず、一般家庭の子と同じように育てることを心がけるようになります。
小学校へは自宅から1時間かけて電車通学をさせ、家庭では仕事の話は一切せず、欲しいものを買ってと子どもにねだられても「3日考えさせて」と言って、すぐに買い与えることはありませんでした。
シヅ子は歌手として成功し高額納税者となっても、土で爪を真っ黒にしながら庭仕事に精を出し、美しく咲いた花々を近所に配り、子どもたちにも親しまれていました。
芸能人だからとお高くとまらず、近隣の人々と気さくに交わる彼女は、本当の幸せは一瞬で消えるきらびやかな世界にあるのではなく、平凡な市井の暮らしの中にこそあるのだと感じていたのでしょう。
我が子には、スターの子どもとマスコミに持ち上げられ、華やかな世界におぼれるのではなく、苦労をしてもしっかり地に足をつけて生きて欲しいと望んだのです。
笠置シヅ子の子育ては、彼女の生き様そのものだったのでした。
参考文献
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』.現代書館
『富士』3(1),世界社,1950-01. 国立国会図書館デジタルコレクション
『鏡』1(1),鏡書房,1948-07. 国立国会図書館デジタルコレクション
笠置シズ子『歌う自画像 : 私のブギウギ傳記』.北斗出版
天野正子,石谷二郎,木村涼子『モノと子どもの戦後史』.吉川弘文館
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