「スエコザサ(ササ・スエコアナ・マキノ)」は、植物学者・牧野富太郎が、亡き妻・壽衛(すえ)をしのんで命名したササの名前である。
仙台で発見した新種のササに、牧野は亡くなった妻への長年の感謝と敬意を表して名前をつけたのであった。
植物学者としての名声を残す一方で、金銭に無頓着で型破りな人生を送った牧野富太郎を献身的に支えた妻として有名な壽衛は、牧野の自叙伝によく登場し、感謝の念をしめされている。
しかし、彼にはもう一人の妻がいた。
研究生活のための金策に尽力したにもかかわらず、牧野の自叙伝に登場することもなく、年譜に名前さえも記されていない最初の妻である。
最初の妻と二番目の妻。破天荒な牧野富太郎を支えた二人の妻とはどんな人だったのだろうか。
最初の妻・猶
最初の妻、牧野猶は牧野富太郎のいとこで、師範学校を卒業した才媛だった。人柄も良く、しっかりした女性だった。
牧野の生家は酒造業を営む高知の裕福な商家「岸屋」で、父母は早くに他界し、牧野は祖母・浪子に育てられた。
小学校を中退し独学で植物学の研究をしていた牧野に、浪子は惜しみない援助をした。研究のためとあれば金に糸目をつけず、本や顕微鏡を買い与え、1881年に初めて上京する時には、お供を二人連れた大名旅行をさせるほどだった。
浪子は由緒ある岸屋の安泰のために、牧野に猶との結婚をすすめた。岸屋の一人息子である牧野も、跡取りとして大切に育ててくれた祖母への恩返しに結婚を承諾したのである。
猶はおかみとしてお店を切り盛りし、よく働く若い番頭・井上和之助もいて岸屋は安泰だった。安心した牧野は家を顧みることなく、独身の時よりいっそう研究にのめりこんでいった。
1884年、牧野は23歳のときに東京帝国大学の植物学教室に出入りを許された。東京に腰を据え、実家からの潤沢な資金をもとに植物研究に打ち込むようになった。
1887年に浪子が亡くなっても実家への金の無心は続いた。その金策をしたのは、岸屋を仕切っていた猶と番頭の井上和之助だった。
彼らは次から次へと要求される大金を工面するために、借りられる金は、親類、縁者、他人といわず借りまくった。そのため岸屋の経営は傾き、もうどうにもならないところまで来てしまっていた。
実家からの仕送りがなくなり郷里に戻った牧野は、その惨憺たる状況に愕然とした。岸屋の一切を投げ出したとしても、抱えた借金には足りないことは明らかだ。
そこで彼は、猶と和之助を結婚させ、二人に岸屋を与えて借金の一切を任せることにした。
こうして1892年、牧野富太郎は、岸屋とも猶とも離別することとなったのである。
その後、猶と和之助は岸屋をたたんで醤油屋を始めたが、間もなく静岡県の焼津へと移った。猶は、1950年に東京で亡くなったと言われている。
二番目の妻・壽衛(すえ)
小沢壽衛は、彦根藩主井伊家の家臣だった父と芸妓だった母の間に生まれた子で、幼いころは裕福な家庭で育った。だが父親が亡くなってからは、母親が営む芸妓置屋や菓子屋で貧しい生活を送っていた。
1888年(90年の説もあり)、菓子屋で働く壽衛を牧野が見初め、二人は結婚した。
壽衛の一生は借金との戦いと言える。牧野は岸屋の破産整理に1年の月日を費やしているのだが、彼の帰郷中、壽衛は牧野にたくさんの手紙を書いている。
牧野が高知へ帰った直後、二人目の子どもを産んだばかりの壽衛は枕が上がらない。子どもたちは朝から晩まで泣きわめき、借金取りは毎日のように利息を取り立てに来る。体調も悪く不安だったのだろう、壽衛は牧野に早く東京に帰ってきてほしいとひっきりなしに手紙で訴えているのである。
東京に残してきた新妻が上を下への大騒ぎの中、当の夫はどうしていたのかというと、高知で一番高い宿に泊まり、音楽家気取りで西洋音楽の催しに夢中になっていた。宿泊代だけでも80円。出産直後の妻は、10円の借金の利息に毎日ペコペコ頭を下げているのに、破産の整理に帰りながら無駄な金を湯水のように使っていたのである。
しかし、こんな異常な金銭感覚の夫の借金に、壽衛は負けなかった。
借金取りの相手をするのはいつも壽衛だったし、産後たった3日で債権者に返済の引き延ばしのお願いにも行っている。質屋で普段着から外出着に着替え、用事が終わると、また質屋で普段着に着替えて帰ってきた。
夫が台湾に植物採集に行くから月給の6倍の金を用意しろと言えば、彼女は10倍の金を用意してきた。
13人の子どもが生まれ(育ったのは7人)、大家族で生活費だけでも大変なのに、高額な本やら植物採集旅行の費用やらで借金はかさんでいく。
それでも彼女は「学問のための貧乏だから恥ずかしがることはない」と気丈に子どもたちに言い聞かせていた。
壽衛の夢
壽衛には商売の才能があった。
彼女はわずかな資金を元手に、渋谷の花街で待合「いまむら」を経営した。待合とは、政財界の人間が会合に使う料亭である。彼女は人あしらいがうまく、店は評判をとり繁盛した。売り上げは月に60円を優に超え、一時的に牧野家の家計は火の車を脱することができた。
だが、しばらくすると素性の良くない客が寄りつくようになり、経営が危うくなってきた。壽衛はすぐさま料亭を売却した。この辺の引き際の良いところも彼女の経営手腕が優れていたことを物語っている。
壽衛の夢は、牧野のために膨大な数の標本を保存できる家を建てることだった。待合を売って得た資金で、彼女は東大泉の土地に一軒家を建てた。それは壽衛から牧野への最後の贈り物となった。
新居に移ってから2年後の1928年、彼女は帰らぬ人となった。55歳であった。
壽衛の思いの詰まった家は、現在、練馬区牧野記念庭園となっている。
練馬区立牧野記念庭園
https://www.makinoteien.jp/
園内の牧野富太郎の胸像の周りには、彼を包むようにスエコザサが生い茂っている。
参考文献:大原富枝「草を褥に 小説牧野富太郎」.小学館
渋谷章「牧野富太郎 私は草木の精である」.平凡社
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