エピローグ
邪馬台国女王・卑弥呼が没したのは、西暦248年とされています。
では、卑弥呼の女王としての在位期間はいつ頃であったのでしょう。その答えの一つとなるのが『三国史記』新羅本紀です。
そこには西暦173年に卑弥呼が新羅に使者を送ったとする記事があり、その時期には既に邪馬台国は存在していたとも考えられます。
以前の【大王墓の謎に迫る】シリーズでは、邪馬台国の最有力候補・奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡にある纏向古墳群の6基の古墳「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」「纏向勝山古墳」「東田大塚古墳」「箸墓古墳」の概要を紹介しました。
古墳時代と弥生時代は重複していた? 邪馬台国の有力地・纏向遺跡にある6基の古墳 【大王墓の謎に迫る】
https://kusanomido.com/study/history/japan/yayoi/72041/
これらの古墳が築造された年代は、3世紀前半~3世紀後半(西暦200年~300年)の時期で、邪馬台国が繫栄した時代であり、ヤマト政権が誕生した時代です。
つまり、これらの古墳は、初期ヤマト政権の母体となった邪馬台国連合首長層の王墓だった可能性が限りなく高いといえます。そして、6基の古墳のいずれかに、卑弥呼が眠っている可能性もまた高いといえるのです。
本記事では、纏向古墳群の6基の古墳を紹介しながら、卑弥呼の墳墓の謎を探っていきます。
第1回は、6基の古墳のうち「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」の3基について、その詳細と卑弥呼との関係を検証していきましょう。
邪馬台国そのものが初期ヤマト政権だった
纏向古墳群の6基の古墳は、一般にいうところの前方後円墳です。しかし、その墳丘の形状から「纏向型前方後円墳(纏向型古墳)」と呼ばれるもの。さらに「箸墓型前方後円墳」と呼ばれるものの2種類に分けられます。
今回の記事に登場する古墳は「纏向型前方後円墳(纏向型古墳)」の「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」の3基です。
以前の記事でご紹介してはいますが、簡単におさらいをしますと、「纏向型前方後円墳(纏向型古墳)」は、円丘部に対して、前方部の長さが円丘部の1/2ほどと短く、高さも円丘部よりも低いという特徴を持ちます。一方「箸墓型前方後円墳」は、円丘部に先端部を撥(ばち)型に開く、長三角形の前方部を持つ古墳です。
この分類法によると「纏向型前方後円墳(纏向型古墳)」は、「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」の3基。「箸墓型前方後円墳」は「纏向勝山古墳」「東田大塚古墳」「箸墓古墳」の3基ということになります。
この2種類の前方後円墳は、時代的には「纏向型前方後円墳(纏向型古墳)」が先行し、「箸墓型前方後円墳」がそれに続くとされてきました。しかし、6基の古墳のほとんどが完全に発掘調査が終了したわけではありません。
事実「纏向勝山古墳」から出土したヒノキ材が、年輪年代法で測定した結果、1点が西暦203年~211年に伐採されたことが判明しました。
その点を踏まえたうえで、現在の考古学で主流を占める見解を述べましょう。
それは、3世紀中頃~3世紀後半(西暦250年~300年)位に、最初の大王墓として「箸墓型前方後円墳」の「箸墓古墳」が築造され、それがヤマト政権の勢力拡大とともに、全国に広がっていったというものです。
しかし、それに遡ること約半世紀前の3世前半~3世中頃(西暦200年~250年)位に、「纏向型前方後円墳(纏向型古墳)」が、北は福島県から南は鹿児島県に築造されていたという事実があります。
これは、ヤマト政権が発生し、全国にその勢力を拡大する前に、それに先行する纏向にあった弥生政権である邪馬台国が、全国に勢力を伸ばしていたことになります。あるいは、邪馬台国とヤマト政権の間に時代的な隔たりはなく、邪馬台国連合は初期ヤマト政権そのものであった可能性も考えられるのです。
それでは「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」について検証を始めましょう。
国内でも最古級と考えられる「纏向石塚古墳」
現在調査が行われている纏向古墳群の中で最古と考えられるのが、全長約93mの「纏向石塚古墳」です。
発掘前は、直径40mほどの円墳とされていました。しかし、1989年に行われた発掘調査で、西暦180年まで遡る纏向1類土器が発見されたこと。周濠から出土した木材が年輪年代法により、西暦200年前後という途方もない数値が出てきたことにより、3世紀初頭の築造と考えられます。
この古墳は、最古級の前方後円墳であるとともに、周濠から発見された朱塗り鶏形木製品、孤文円板などの出土品も注目を集めました。
孤文円板は、吉備地方の特殊器台につけられた特殊な文様と同じ文様が刻まれており、吉備との深い関係性が考えられます。孤文円板は、箸墓古墳の特殊器台形埴輪にも見られます。
また、朱に塗られた鶏形木製品の存在は、3世紀初めに墳丘の上で、葬送儀礼が行われたことを推測させるのです。
また、墳頂部が太平洋戦争末期に削平された際に、埋葬施設の検出や遺物の出土はありませんでした。
被葬者に繋がるような調査が待たれますが、築造年代から判断すると卑弥呼以前に亡くなった人物の墳墓であるといえます。
被葬者は、卑弥呼を助けた邪馬台国連合の首長が推測されるでしょう。
これからの調査が待たれる「纏向矢塚古墳」
2007年に桜井市教育委員会により、前方部の調査が行われ「纏向型前方後円墳」と推定されたのが、全長約96mの「纏向矢塚古墳」です。
後円部頂には板石が散乱していることから、板石積竪穴石室(いたいしづみたてあなせきしつ)の存在が推測されます。
東側周濠部分からは、完形土器群が見つかっています。
しかし、何分にも調査が進んでおらず、築造年代は、西暦230年~290年頃と絞り切れていません。
ただ、すぐ近くに「纏向勝山古墳」「纏向石塚古墳」と3世紀初頭まで遡れる古墳があるため、今後の発掘調査次第では大きな発見があるかもしれません。
卑弥呼に深く関連すると思われる「ホケノ山古墳」
箸墓古墳の東側250mの場所に位置するのが、全長約90mの「ホケノ山古墳」です。
この古墳で最も注目されるのは、後円部にある幅2.7m・長さ7mの主被葬者を埋葬したと考えられる積石木槨(つみいしもっかく)の存在です。
その中には、埋葬施設を覆うように特異な切妻造りの建物が設けられていました。
極端な言い方をすると、神社の社殿や宮殿の主殿を思わせるような建物のミニチュア版が納められていたような感じです。
埋葬施設は、この他にも前方部に葺石を壊して埋葬した箱型木棺があり、伊予あるいは讃岐で作られたと考えられる大きな土器が供献されています。また、後円部には墳丘を再利用して作られた6世末頃の横穴式石室もあります。
数多い副葬品の中で卑弥呼との関係で注目されるのが、少なくとも2面出土している画文帯神獣鏡です。
一般に卑弥呼の鏡といえば、三角縁神獣鏡ということになります。
しかし、画文帯神獣鏡の方が、卑弥呼が魏から下賜された鏡としては年代的によりふさわしいという説が有力です。
「ホケノ山古墳」は、出土した土器などから、その築造年代は、250年頃と推定されます。250年というと卑弥呼の没年とほど一致するのです。
また「ホケノ山古墳」の積石木槨は、3世紀初頭に築造された阿波の萩原一号墳の埋葬施設に酷似しているといわれます。
そのため「ホケノ山古墳」の被葬者を四国東部の阿波・讃岐出身の人物に比定する説があります。
ちなみに四国東部には、卑弥呼のモデルともいわれ、箸墓古墳の被葬者に比定される倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を祀った神社があり、ヤマト騒乱で姫が同地に逃れてきたという伝説が残るのです。
「ホケノ山古墳」は、その築造年代や副葬品から、卑弥呼の墳墓と考えてもおかしくない要素を持っています。ただ、副葬品に男性的な鉄剣・鉄鏃などの武器が多いのが気になる点です。
ちなみに大神神社では、その被葬者を崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に比定しています。これは「ホケノ山古墳」が、古くからシャーマニズム的な要素をもった女性の墓とみなされていたのかもしれません。
第2回では、纏向古墳群の「箸墓型前方後円墳」について、引き続きその詳細と卑弥呼との関係を検証していきましょう。
※参考文献
石野博信著 シリーズ遺跡を学ぶ051『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』新泉社 2008年12月
矢澤高太郎著『天皇陵の謎』新春文書 2019年5月
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