幕末明治

新選組の強さについて調べてみた 【装備、戦術】

新選組の強さについて調べてみた

新撰組

幕末の京都を血で染めた壬生の狼たち。
そのエピソードには事欠かない。それは組織としての強さだけではなく、魅力ある隊士たちがいてこそである。
しかし、本当にそこまでの強さを誇っていたのだろうか?名だたる剣客が揃っていたとはいえ、ここまで英雄視されるのはなぜか?
新撰組の強さについて調べてみた。

個で見る新撰組

新撰組の隊士の中でも有名なのが、近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、斉藤一あたりだろう。特に近藤、土方、沖田は天然理心流の同門で、永倉とも付き合いがあったという。

天然理心流は、剣術の中でもより実戦的で形のみに捕らわれることなく、柔軟に相手に対処することが出来る流派である。

永倉も「力の剣法」と称される神道無念流の免許皆伝の腕前だった。斉藤の流派については明確な記述がないものの、新撰組に入隊してからは三番隊隊長、撃剣師範を務めるなどそれまでに剣の腕は磨かれていたようだ。

江戸時代末期といえば徳川幕府300年の歴史により大きな戦もない時代。剣術も「武士としてのたしなみ」程度に思われていたらしい。そのなかでも、後に新撰組の中枢を担う男たちは実戦的な剣術を身につけていた。

新選組の強さについて調べてみた
※近藤勇(国立国会図書館蔵)

人を斬る心理

確かに新撰組には剣術の達人が多かった。しかし、剣の腕が立つのと実戦で人を斬るのは全くの別物である。そうも簡単に人を斬ることができたのだろうか?

大きな戦もなくなって久しい時代、武士と言えども人を斬ることなく生涯を終えた者も多かったはず。まして現代では銃弾で遠くの人間を殺すことでも激しいストレスを抱える兵士もいるのだ。それが目の前の人間を斬るというのはどういう心理だったのだろう。

そこでひとつのヒントを得た。

新撰組の関わった大きな事件、例えば池田屋事件ぜんざい屋事件などでは襲撃をしているが、そもそも新撰組の任務とは倒幕志士の捜索・捕縛などである。つまり、襲撃といっても最初から相手を斬る事を目的としてはいなかったはずだ。しかし、狭い屋内で相手が刀を抜けばこちらも抜かなければ殺される。そうした究極の選択の中で人を斬ることに抵抗を感じなくなったのかもしれない。

そして、もうひとつ。近藤の出身地である東京・多摩地区は江戸時代には幕府の直轄領となった。さらに徳川三代将軍家光公の治世には、徳川御三家の鷹場として指定されたのである。鷹場とは、将軍家の人間が鷹狩りを行うための土地であり、そこでは鷹の餌となる小鳥などを保護する名目で野生動物の狩猟などが禁じられていた。

このように幕府、特に将軍家とは縁のある土地である。そういったところで育ったため、人一倍幕府に対する忠誠心が強かったのではないだろうか。そんな農民出身の近藤らが幕府のために直接働ける場所を与えられたのだ。
職務を遂行するため、人を斬ることにためらいが少なかったとも考えられる。

新選組の強さについて調べてみた
※池田屋跡(2010年4月)

新撰組の装備

池田屋事件についてはあまりに有名なのでそのあらましについて語ることは避けたい。しかし、興味深いのは新撰組の装備である。
勤皇志士約20人に対し、実際に襲撃したのは近藤、沖田、永倉、藤堂の四人で、残りの隊士は討ち漏らすことのないように表を固めていたという。
しかも、永倉と藤堂は一階で待ち伏せ、実際に二階に踏み込んだのは近藤と沖田の二人だけだった。いくら相手が油断していたからといって尋常ではない。
そこで興味を惹いたのが新撰組の装備だ。

新撰組はこのとき、鎖帷子、鉢金、篭手、脛当て、さらには鎖頭巾という完全装備であった。その結果が、四名ともほぼ無傷で戦えたということだろう。
いくら完全装備とはいえ、その程度で良く戦えたと考える者もいるかもしれない。しかし、ここが重要なのだ。

相手の武器がだったから戦えたのである。

混同されがちだが、日本刀にも大きく二種類あり、簡単に言ってしまえば「太刀」と「」だ。

太刀は戦国時代まで使われていたもので、刃が厚く反りも強い。甲冑を着た相手を鎧ごと叩き斬るのに適していた。一方で刀は刃が薄く、反りも弱い。振り下ろされたときの力は弱いが、こちらは衣服ごと肉体を斬るのに適していたといわれる。刀が腰の飾りとなって久しい時代、多くの武士が鎧の必要性を忘れた結果である。

その意味では相手にとって新撰組の装備は、甲冑と同じくらいの意味を持っていただろう。新撰組の強さはその技に奢ることなく装備を整えていたことも要因なのだ。

新撰組の戦術

先にも書いたように新撰組の主な任務は捜索や捕縛である。実際に血を見ることなく任務を終えたことも多かったようだ。

しかし、考えてみたら刀を持った相手を無傷、または生かしたまま捉えるというのは難しい。相手より多い人数で連携しないと難しいのは、現代の警察官についても同じである。新撰組は主に3〜4人の分隊からなる集団戦術をとっていたわけだが、こうした経験を積むことで、「」から「組織」としての連帯感を強めていったのだろう。

襲撃時などは少ない情報を元に屋内を捜索しながら戦わなくてはいけない。互いにカバーしあっていたことは容易に想像できる。そうした戦術は現代の特殊部隊のようだ。ゲリラ戦に精通し、素早く標的を排除して決着をつける。こうした集団戦闘こそが新撰組の強さだったのではないだろうか?

武士といえば互いに名乗りを上げて一対一で戦うのが当然と考えられていた時代、こうしたゲリラ戦に特化した集団は攘夷派の志士にとっては脅威だったに違いない。

最後に

新撰組に対して後の世では「個人では大して強くはなかった」という話も聞く。

しかし、最大の強さとは「個」の強さだけではなく、「組織」としての強さ、そして、江戸時代には確立されていなかったゲリラ的な新しい戦術によるところが大きいとわかった。
やはり、壬生の狼は群れてこそ、その強さを発揮できたようだ。

  • Xをフォロー
好きなカテゴリーの記事の新着をメールでお届けします。下のボタンからフォローください。

gunny

投稿者の記事一覧

gunny(ガニー)です。こちらでは主に歴史、軍事などについて調べています。その他、アニメ・ホビー・サブカルなど趣味だけなら幅広く活動中です。フリーでライティングを行っていますのでよろしくお願いします。
Twitter→@gunny_2017

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

    • 名無しさん
    • 2023年 1月 09日 12:52am

    >武士といえば互いに名乗りを上げて一対一で戦うのが当然と考えられていた時代、こうしたゲリラ戦に特化した集団は攘夷派の志士にとっては脅威だったに違いない。
    いつの時代の話をしてるんだろうか
    名乗りをあげて一対一なんて鎌倉時代とかそんな話だろう
    それだって半ば神話なのだが

    0 0
    50%
    50%
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 明治・大正・昭和の天皇陵は、なぜ上円下方墳なのか?御陵に隠された…
  2. 西郷隆盛の銅像 がなぜ上野公園にあるのか?
  3. 松平春嶽について調べてみた【本人は否定した幕末の四賢候】
  4. 「坂本龍馬が歴史の教科書から消える?」 今と昔でこんなに違う歴史…
  5. 晒し首にされた絶世の美女・原田キヌ 「イケメン役者と一緒になるた…
  6. 上杉茂憲 ~沖縄県令となり「義」を貫いた最後の米沢藩主
  7. 初代総理・伊藤博文の信じられない女好きエピソード 【明治天皇にも…
  8. 明治・大正時代の洋菓子について調べてみた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【未解決事件】消えた風船おじさん 〜太平洋横断を夢見た「ファンタジー号事件」とは

幼い頃、ふわふわと宙に浮かぶ風船で空を飛んでみたいと考えたことがある人は、決して少なくはない…

孔子の自由な教育スタイルと優秀な弟子たち 【学費は干し肉だった】

孔子の弟子中国春秋時代の思想家「孔子」。彼には3000人もの弟子がいたとされ、そ…

【外国人から見ると変わって見える台湾人の5つの癖】 ~質問に「は?」で答える

文化とは世界には多くの国があり、それぞれの文化や習慣は大きく異なっている。グロー…

【世界人口削減?】ジョージア・ガイドストーンの謎 「10のメッセージと爆破事件」

2022年7月6日、アメリカジョージア州にある謎の巨大なモニュメントが、突如何者かに爆破され…

『兵馬俑で新たな発見』最高位クラスの軍事指揮官が出土する 〜秦の始皇帝が遺した軍団

兵馬俑とは中国の西安にある兵馬俑(へいばよう)は、「世界第八の奇跡」と称される壮大な遺跡…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP