西洋史

【寝取られ男】超美人妻をめぐりイケメン貴族と決闘した詩人・プーシキンの悲劇

アレクサンドル・プーシキンは、ロシア近代文学の礎を築いた国民的な詩人です。

彼は若くしてその才能を開花させましたが、その波乱に満ちた人生は37年という短いものでした。

天才詩人として名を馳せたプーシキンが、どのような運命をたどったのか、その生涯を振り返ります。

生まれながらの天才詩人

画像:『アレクサンドル・プーシキンの肖像画』public domain

アレクサンドル・プーシキンは、1799年6月6日、モスクワに生まれました。

彼の父は由緒あるロシア貴族の家系であり、母方の曾祖父にはアフリカ出身とされるアブラム・ガンニバルがいます。
ガンニバルは奴隷としてロシアに連れてこられましたが、ピョートル大帝の信任を得て、軍人として高い地位を築いた人物でした。

プーシキン家は文化的な環境に恵まれており、多くの知識人や文学者が訪れる場でもありました。
その中には、ロシア文学の改革者として知られるカラムジンも含まれ、プーシキンは彼らから直接的または間接的に影響を受けています。

また、幼い頃からプーシキンの世話をしていた乳母アリーナは、ロシア民話や民謡に精通しており、これがプーシキンの創作活動に大きな影響を与えました。

12歳の時、プーシキンは貴族の子弟が通うリツェイ(学習院)に入学します。

ここで彼は詩作を始め、その才能は早くから一部の教師や大人たちに認められました。

画像:古典主義の代表的詩人だったガヴリーラ・デルジャーヴィン public domain

リツェイで発表した詩が、ロシア古典主義の代表的詩人ガヴリーラ・デルジャーヴィンに高く評価され、彼の文学的才能が広く認められるきっかけとなりました。

高嶺の花を何とかゲット

リツェイを卒業した後、プーシキンは慎ましい官吏として働き始めました。

しかし、彼の詩作は次第に政治的な内容を含むようになり、皇帝アレクサンドル一世や政府の不興を買います。その結果、1820年、南ロシアへ追放されることとなり、名ばかりの官吏として過ごす日々が始まりました。

追放の間にも、プーシキンは筆を止めることなく、後に評価される数々の名作を生み出しました。
1824年、ようやく追放は解かれ、アレクサンドル一世の後を継いだニコライ一世のもと、彼の作品は発表前に検閲を受けるという条件付きで、1826年にモスクワへ戻ることが許されました。

そんなプーシキンが運命的な出会いを果たしたのは、1828年、モスクワで開かれた舞踏会でした。

当時29歳のプーシキンは、16歳の美しい乙女ナターリア・ゴンチャロワに心を奪われたのです。

画像:ナターリア public domain

ナターリアはスウェーデン貴族の血を引き、その際立った美貌はモスクワ中で評判となっていました。

彼女の母親はその美貌を利用して、ナターリアを玉の輿に乗せようと考えており、過去に追放の経験があるプーシキンは結婚相手としてふさわしくないと見なされていました。

それでもプーシキンは諦めず、ナターリアに真摯な想いを伝え続けました。

その努力が実り、1831年2月、ついに二人は結婚することができたのです。

ロシア皇帝が、プーシキンの妻に色めき立つ

画像:ニコライ一世 public domain

結婚後、妻ナターリアは、夫プーシキンとともに首都ペテルブルクの社交界にデビューしました。

その美貌は瞬く間に注目を集め、社交界で絶大な人気を誇る存在となりました。ナターリアの魅力は噂を呼び、ついには皇帝ニコライ一世までもが彼女に興味を抱くほどでした。

しかし、ナターリアの低い身分では、皇帝主催の宮廷舞踏会に出席することはできません。そこで、皇帝は一計を案じ、通常であれば若者が務める年少侍従に、34歳のプーシキンを異例の任命で採用しました。

この役職に就いたことで、プーシキンとその妻ナターリアは帝室への出入りを許され、ナターリアは毎晩のように舞踏会や宴会に呼ばれるようになりました。

しかし、この状況はプーシキンにとって屈辱的なものでした。

宮廷の一員としての待遇は彼に名誉を与えるものではなく、むしろ妻の社交活動に振り回される形となったのです。さらに、社交界での華やかな生活には多額の費用がかかり、プーシキンはわずかな土地を質に入れたり、国庫から借金をしたりして資金を工面しなければなりませんでした。

そのうえ、ナターリアの美貌はフランス人士官ジョルジュ・ダンテスの目にも留まりました。

ダンテスは貴族らしい風貌と洗練された態度で社交界を渡り歩く人物で、妻に執拗に言い寄る彼の存在がプーシキンをさらに苦しめることとなりました。

「間男」ダンテスとは

画像:ジョルジュ・ダンテス public domain

フランス人士官ジョルジュ・ダンテスは、オランダ大使ヘッケル男爵の養子であり、近衛騎兵士官としてペテルブルク社交界に颯爽と現れました。

背が高く、容姿端麗で、話題も豊富だったことから瞬く間に注目を集め、ナターリアと並ぶほど社交界で人気の的になりました。

当時、ナターリアは21歳で、その美しさは絶頂期にありました。
そんな中で、ダンテスはナターリアに対して露骨な求愛を始め、社交界でも広く知れ渡るほどでした。さらに、ナターリア自身もその状況を楽しんでいるかのような振る舞いを見せていたといわれます。

一方で、プーシキンは心穏やかではいられませんでした。

反体制派の詩人として名声を築いてきた彼にとって、妻を交えた上流階級の社交の場は居心地の悪いものでした。
あるパーティーでは、他の人々が和やかな雰囲気を楽しむ中で、プーシキンは執拗な視線をナターリアとダンテスに向けていたとされています。

そのような折、プーシキンの元に匿名の手紙が届きます。

その手紙にはフランス語で「寝取られ男」という侮辱的な言葉が記されていたのです。

さらに、ダンテスの養父であるヘッケル男爵もナターリアに対し、ダンテスとの関係を勧めているという話が広まり、プーシキンの怒りと屈辱感はさらに募りました。

そんな状況の中、1837年、なんとダンテスは突然ナターリアの姉、エカテリーナと電撃的に結婚しました。
しかし、これでプーシキンの心配が終わることはありませんでした。

ダンテスが義兄という立場を得たことで、ナターリアと堂々と会う機会がさらに増えたのです。

エカテリーナとナターリア姉妹は、美貌や魅力の面で明らかな差があったと言われています。いわば不釣り合いなダンテスのこの結婚に、世間は不純な意図を感じたそうです。

この状況がプーシキンの心に重くのしかかり、さらなる波乱を招くことになります。

嫉妬のあまり「決闘」を申し込む

画像:ドン・コサックの服を着たプーシキン wiki c GAlexandrova.jpg

義兄となったダンテスは、舞踏会ではナターリアとばかり踊り、乾杯の場ではプーシキンや妻エカテリーナを憚ることなくナターリアを称賛する発言を繰り返しました。

そして世間の好奇の目は「寝取られ男」プーシキンへと注がれ続けたのです。

プーシキンの怒りはもはや限界を超えていました。そしてついにダンテスに「決闘」を申し込んだのです。

二人の決闘は1837年2月8日午後5時、雪原となったペテルブルク郊外の衛戍司令部の裏において、拳銃を武器として行われました。

介添人の合図に従い、プーシキンとダンテスは距離をとりながら歩み始めます。

最初に銃声を鳴らしたのはダンテスです。
その銃弾はプーシキンの腹部に命中し、彼は地面に倒れ込みました。それでもプーシキンは意識を失うことなく、駆け寄ろうとする介添人を振り払い、反撃の一発をダンテスに放ちました。

プーシキンが自らの命と引き換えに撃った銃弾を受けたダンテスは、右手で胸を押さえました。

ところが弾丸はダンテスのズボン吊りのボタンに当たっており、彼は命拾いをしたのでした。

プーシキン亡き後

画像:ナターリアへの厚遇はプーシキンを称えるためではなく、皇帝のナターリアへの未練だったという説も public domain

腹部に致命傷を負ったプーシキンは、決闘の場からソリで自宅へ運ばれました。

彼は激痛と高熱に苛まれながらも、家族や友人に見守られつつ、二日後の1837年2月10日に息を引き取りました。享年37。
その短い生涯の終わりは、ロシア文学界にとって大きな損失となりました。

プーシキンの死後、ダンテスはロシア国内で大きな非難を浴び、爵位を剥奪されました。その後、フランスへ帰国し、ロシアから姿を消します。

一方で、プーシキンの妻ナターリアは、遺された四人の子どもたちとともに生活を続けました。ナターリアには国庫から借金が返済されるだけでなく、皇帝から遺族年金が与えられ、生活の基盤は確保されました。

1844年、ナターリアはロシア人士官と再婚し、再び家庭を築きます。その後の人生でも子宝に恵まれ、彼女は新たな道を歩み続けました。

プーシキンは命を懸けるほどの情熱で人生を駆け抜けました。その姿勢や数々の作品は、時代を超えて読者の心を魅了し続けています。

参考文献:世界情死大全「愛」と「死」と「エロス」の美学/桐生 操 (著)
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

    • 牧子嘉丸
    • 2025年 4月 16日 9:45pm

    ドストエフスキーが終生敬愛したプーシキン。彼の「スペードの女王」はなんとか近衛士官になりたいと願っていたゲルマンというドイツ系ロシア人が主人公で、カードで儲けて立身しようとしますがあえなく破綻。この人物の後身が「罪と罰」のラスコリニコフといえます。ともにナポレオンの心酔者でした。

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