
画像:キャロライン・オブ・ブランズウィック public domain
イギリス王室の歴史には、華やかな戴冠式や壮麗な王宮の陰に、数々の愛憎劇が秘められています。
その中でも、19世紀初頭に繰り広げられたジョージ4世と、キャロライン・オブ・ブランズウィックの結婚生活は、単なる夫婦の不和を超え、王室を揺るがす国家的スキャンダルに発展しました。
2人の関係は政略結婚に始まり、別居、国民的論争、議会での裁判沙汰、そして王冠を巡る苛烈なやり取りまで、ドラマさながらの濃密な展開があります。
キャロライン妃は制度に翻弄されながらも民意を味方につけ、王室と真正面から対峙した稀有な存在でした。
今回は、ジョージ4世とキャロライン妃の激動の愛憎劇をたどります。
冷めた結婚、愛なき出会いと破綻の序章

画像:リチャード・コズウェイによるジョージのミニチュア(1792年) public domain
1795年、ジョージ王太子(のちのジョージ4世)は、自らの放蕩によって抱えた莫大な借金を帳消しにする条件として、結婚を決意しました。
政略上の選択肢として選ばれたのが、ドイツ・ブランズウィック公国の公女キャロラインでした。
当時の一部の記録によると、初対面の際、風呂嫌いで強い体臭を放つキャロラインに王太子は全く惹かれることなく、ブランデーを求めて気を紛らわせたと言われます。
一方キャロラインも「彼は太りすぎで、肖像画ほどは魅力的ではなかった」と語っています。
二人は顔合わせの時点で、互いに強い嫌悪感を抱き合ったのです。
結婚式は1795年4月8日にセント・ジェームズ宮殿で執り行われましたが、その晩ジョージは酒に酔い、暖炉の近くに倒れ込んだまま一夜を明かしました。
このように、新婚生活は最初から順調ではありませんでしたが、1796年1月7日には、2人の間に唯一の子となるシャーロット王女が誕生します。
しかし、そのわずか3か月後、ジョージはキャロラインに別居を申し入れました。
夫婦関係は修復されることなく、キャロラインは宮廷から遠ざけられ、ロンドン郊外で孤立した生活を送るようになったのです。
一方のジョージは、以前からの愛人で6歳年上の未亡人マリア・フィッツハーバートとの関係を続けており、妻に対する公的配慮はほとんど見られませんでした。
不名誉な調査と人気の高まり

画像:キャロラインとの婚前、ジョージが非公式に婚姻していたマリア・フィッツハーバート public domain
王室から遠ざけられたキャロラインでしたが、社交界では活発に存在感を示し、周囲から注目されました。
しかし、彼女が養子に迎えた少年ウィリアム・オースティンをめぐり、「不倫の子ではないか」という噂が流れるようになります。
1806年、政府はこの疑惑を解明するため「繊細な調査(Delicate Investigation)」と呼ばれる特別調査委員会を設置しました。
調査ではキャロラインが元召使いらと不適切な関係を持ったとする証言が提出されましたが、最終的に決定的な証拠は見つからず、キャロラインは無罪と認定されます。
一方、ジョージはマリア・フィッツハーバートをはじめ複数の愛人との関係を続けており、その放蕩ぶりは広く知られていました。
このため、国民の同情は自然とキャロラインに集まり、やがて彼女は「民衆の女王」として支持を得るようになったのです。
大陸への退避と娘の死

画像:キャロラインとペルガミの不倫疑惑を揶揄する風刺画 public domain
1814年、キャロラインはイギリスを離れ、フランスやイタリアなど大陸各地を旅しました。
その旅の途中で出会ったのが、後に侍従長となるバルトロメオ・ペルガミです。
2人は親密な関係にあったと噂され、イギリスの新聞や風刺画でも盛んに取り上げられましたが、確かな証拠はなく、当時から意見が分かれていました。
1817年11月、キャロラインとジョージの唯一の子であるシャーロット王女が、男子を死産した翌日に産褥合併症で急死します。
王位継承の希望とされていたシャーロットの死は国中に深い悲しみをもたらし、全国で服喪が行われました。
しかし、母であるキャロラインには王室からの正式な連絡はなく、第三者を通じて娘の死を知るという屈辱を受けます。
この出来事は、キャロラインに強い怒りと深い悲しみを刻むことになりました。
娘を失った母、夫に蔑ろにされた王妃、そして「排除された存在」としての彼女は、自らの立場を取り戻すため、ついに本格的な闘争を決意していきます。
王位継承と立法劇、そして「扉を叩く者」

画像:1821年7月19日に行われたジョージ4世の戴冠式の様子 public domain
1820年1月、ジョージ3世の崩御により、ジョージ王太子は正式にジョージ4世として即位しました。
法的にはキャロラインもイギリス王妃となりましたが、ジョージは彼女を迎え入れることを望まず、年金を与える代わりに国外に留まるよう提案します。
しかしキャロラインはこの条件を拒否し、「正当な女王」としての立場を主張するため、ロンドンへ帰還したのです。
同年、王室と政府はキャロラインを王妃の座から排除するため、「苦痛と刑罰法案」という異例の法案を議会に提出します。
この法案は、キャロラインがバルトロメオ・ペルガミと不倫関係にあったとする証言を根拠に、王妃の称号を剥奪することを目的としていました。
しかし、証人として召喚されたイタリア人たちの証言は偏っており、信憑性に欠けるものが多かったことから、民衆やホイッグ党(改革派の野党)の強い反発を招き、最終的に法案は廃案となります。
この結果を受け、キャロラインは翌1821年7月19日に行われるジョージ4世の戴冠式への出席を求めましたが、王室はこれを拒否しました。
当日のウエストミンスター寺院で、キャロラインは「私は女王です。開けなさい!」と叫びながら扉を叩きました。
儀仗兵に拒まれ、ついにはその場を追われたキャロラインでしたが、その姿は多くの市民に「誇り高き女王の姿」として刻まれたのです。
死と民衆の抗議

画像:1821年8月7日、アイルランドへ行く途中、ホリーヘッドを経由したジョージ4世。同日にキャロライン王妃が薨去した public domain
しかし、そのわずか20日後の1821年8月7日、キャロラインは体調を崩し、急逝しました。
死因については病死とされていますが、当時は「毒殺されたのではないか」という噂も広がりました。
遺言には「イングランドで傷つけられた女王として葬られたい」と記されており、1821年8月14日の葬列ではその遺志が尊重され、キャロラインの棺には「The Injured Queen of England(イングランドで傷つけられた女王)」と記されたプレートが掲げられました。
葬列がロンドン市内を通過する際には多くの市民が集まりましたが、王室の対応に抗議する群衆と軍隊が衝突。
石投げが起きたことで兵士が発砲し、2人の市民が死亡する騒動となります。
この事件は、キャロラインの死をさらに悲劇的なものにし、民衆の心に深い影を落としました。
ジョージ4世とキャロライン妃の物語は、単なる王室スキャンダルにとどまりません。
女性が閉ざされた権力構造の中で自らの立場を主張し、民衆の支持を背景に王権と対峙したその姿は、当時の市民意識に大きな衝撃を与えました。
世にも不幸なこのロイヤル・マリッジは、200年近く経った現代においてもなお、私たちに問いかけを残していると言えるでしょう。
参考:『Encyclopedia Britannica』『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』他
文 / 草の実堂編集部
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