神の声を聞き、祖国のために戦争に身を投じたその娘は、まだ17歳だった。
百年戦争を勝利へと導きながらも、最後は炎の中に消えていった英雄ジャンヌ・ダルクとはどのような少女だったのか?
時代背景
※シャルル7世
フランス国とイングランド王国は、フランスの領土を巡り1337年から激しい戦争を続けていた。
そもそもの発端は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことにあった。
さらに1420年には、フランス国王の娘・カトリーヌとイングランド国王のヘンリー5世が結婚し、その子供であるヘンリー6世をイングランド王位と共にフランス国王の跡継ぎにするというトロワ条約が締結される。
しかしフランス国王には、シャルル7世という息子がいた。条約に従うならばシャルル7世は国王に即位できない。そのためフランスの国王が亡くなると、ヘンリー6世のイングランド軍と、シャルル7世のフランス軍とでさらなる戦いが始まった。
一見して、フランスにとって不利に思われる条約だが、シャルル7世の父であり前国王のシャルル6世は、精神障害により国政への参加がほぼ不可能な状態だったのだ。
それにより、フランス国内の政治は乱れ、イングランドに有利な状況を作り出していた。
イングランド軍はフランスに侵攻、あらゆる建物や施設、食料などを焼き払う焦土作戦により、フランス経済は壊滅的な打撃を受けたのである。
そのような戦いが続くなかジャンヌが歴史上に現れたのは、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。
1429年のことである。
啓示を受けた少女
※ジャンヌの生誕地
ジャンヌ・ダルク(仏: Jeanne d’Arc・ユリウス暦 1412年頃1月6日 – 1431年5月30日)が生まれたのは、バル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。ドンレミ村はフランス王家への素朴な忠誠心を持った村で、フランス全土から見れば東部にある。
12歳のころ、独りで屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えた後にジャンヌは泣き崩れたと語っている。
しかし、農家の娘が国王に謁見することなど簡単にはできない。そこでジャンヌは親類のツテでヴォークルールの守備隊長だったロベール・ド・ボードリクール伯に、オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。
このことにより、ジャンヌは国王にシノンで謁見する許可をもらい、二人だけの面会が実現する。17歳の少女の言葉に、最初は国王も疑っていて耳を傾けることはなかった。だが、ジャンヌは、他の誰も知らないはずの、シャルル7世の秘密について知っていおり、それを言うと国王はジャンヌの言葉の話を真剣に受け止めたという。
シャルル7世は「神の声を聞いた少女が現れた!」と喜び、ジャンヌはフランス軍の司令官の一人として、戦いに加わることになった。
オルレアンの乙女
※オルレアン包囲戦のジャンヌ
ジャンヌが戦うこととなったオルレアンでの戦いは百年戦争のターニングポイントとなる。フランス北中部のロワール川沿いの町であるオルレアンは、イングランド、フランスの双方にとって、戦略的にもシンボルとしても重要な街であった。
その頃のフランス軍の敗因は、消極的な戦術に陥っていたからである。ジャンヌはそれを一新すべく、自ら軍を率いて攻勢に出る。ジャンヌと行動をともにしていたジル・ド・レなどのフランス軍人たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにも関わらず戦列に復帰して、最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった。
ジル・ド・レについては ↓
オルレアン包囲戦の勝利からジャンヌの存在は、フランス軍の中で一際目立つようになる。その後もフランス軍はイングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認したという。
こうして、フランス軍はジャンヌの登場により起死回生をはかり、見事シャルル7世をランスの街へと導いた。ランスは代々フランス国王が王位の位を受け継ぐ式をあげる街で、シャルル7世もようやく正式に国王の座につくことができたのである。
そして、ジャンヌはオルレアンの乙女とも呼ばれるようになった。
炎に消えた少女
※火刑台のジャンヌ
1453年、フランスとイングランドの間で休戦協定が結ばれ、ここに百年戦争は一応の決着を見た。その後のジャンヌは貴族に叙せられ、静かな生活を送っていたが、休戦協定は間もなく失効してしまう。再び戦場へと赴いたジャンヌだったが、ここで敵の捕虜となってしまった。
当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。シャルル7世はジャンヌの身柄引き渡しに介入しなかったのだ。
これにより、ジャンヌはあらゆる不利な条件下で異端裁判を受け、死刑判決を受けた。この裁判の過程、いや、裁判そのものに異例な点や記録の改ざんなどが多く見られるが、ともかく1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の様子は処刑執行者の一人に「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と言わしめている。
享年19であった。
最後に
※パリのノートルダム大聖堂に安置されているジャンヌの彫像
ジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世からのジャンヌの列福となって結実する。
さらに1920年5月6日には、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会におけるもっとも有名な聖人の一人となっていった。
1803年にはナポレオンが「ジャンヌ・ダルクはフランスの英雄」と呼び、現在でもフランス国民の英雄だが、その生涯には不明な点がまだまだ多い。特にジャンヌの時代の情勢が複雑だったため、今回はその説明に重点を置いた。
機会があればさらに焦点を絞って調べたいと思う。
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