「海賊」と聞くとみなさんはどんなものを想像するだろう。
少し前に流行した映画パイレーツ・オブ・カリビアンだろうか。大人気漫画のワンピースだろうか。
やはり、ドクロマークの付いた旗や帽子を身につけた髭面の悪党というのが一般的なイメージだろうか。
ヴァイキングや倭寇など地域、時代によりさまざまな海賊が存在するが、今回取り上げるのはイングランドの海賊である。
現在ではソマリア沖の海賊が漁船や貨物船などを狙った度重なる襲撃、略奪行為などで国際社会で問題となっているが、16、17世紀のイングランドでは海賊はなんと合法であった。当時のイングランドを支えていたものの一つが海賊といっても過言ではない。
それでは、イングランドの海賊がどのようなものであったのかみていこう。
中世の合法的海賊
前述のとおり、イングランドではエリザベス1世の時代には、私拿捕船(しだほせん)や私掠船(しりゃくせん)と呼ばれる合法的な海賊かいた。
イングランド政府などから免許状を受けて海賊行為を行う船である。
国王や地方長官が、特定の個人または団体に特許を与えて、外国の艦船を襲って強奪することを認めたもので、現代の感覚からいうとかなり野蛮なことを政府が公認しているという信じられない制度だ。
戦利品の10%は委託者に納められたため、国王をはじめとした権力者への恩恵は大きい。
この制度はイングランドのみならず、当時のヨーロッパでは各国で行われていたごく普通のことなのである。
そして、この国王と海賊という結びつきで特に有名なのが、イングランドのエリザベス1世とフランシス=ドレークという海賊である。
エリザベス1世統治下の情勢
エリザベス1世は1558年から1603年までのイングランド王である。
この頃、1500年代前半にはスペインのコルテスが現在のメキシコにあたるアステカ帝国を滅ぼし、ピサロはインカ帝国を滅ぼしていた。
そうしてヨーロッパにはない植物や金銀などがスペインを中心にヨーロッパに運び込まれ、大きな富が動くようになっていた。
ちなみに、イタリアンやフレンチに欠かせないイメージのあるジャガイモやトマト、トウモロコシなどはこの時初めてヨーロッパにやってきた野菜である。
フィッシュ&チップスも、トマトソースのピザも、コーンポタージュも、実はそれほど長い歴史があるというわけでもないのだ。
非常に魅力的な商品を詰め込んだスペイン船が行き来していたが、海賊たちの多くはこのスペイン船の貿易船を狙っていた。
フランシス・ドレイク
フランシス・ドレークは1570年代に海賊行為を始めたと言われている。
スペイン船や西インド諸島のスペイン人が住む村を襲い、どんどんと財産を蓄えていった。
1577年にはエリザベス1世の許可を得て、女王専属の海賊となった。エリザベスはドレークのことを「私の海賊」と呼んだという。
当時イングランドはスペインと海外貿易や宗教で対立しており、スペインの財をかっさらってきたドレークはエリザベスに気に入られたのである。
そして1577年に始まる航海では、マゼランに次ぐ世界で二番目の航路世界一周を成し遂げた。
この航海の間にホーン岬(南アメリカの最南端にある岬)とドレーク海峡(南アメリカのホーン岬と南極半島の北側の島々の間の海峡)を発見した。
ただの海賊ではない。けっこうすごいやつなのだ。
この航海にはエリザベスももちろん出資した。
世界一周をしながらいくつもの略奪行為を行い、イングランドに帰ってきたときには60万ポンドの財宝を得ていた。
これは今の価値にすると軽く100億を超える。エリザベスは配当金として30万ポンド以上を手に入れた。
この額はなんと、当時のイングランドの国庫歳入金額を上回る高額さである。
ドレイクとアルマダの海戦
世界一周の功績により、いっそうエリザベスの信頼を得たドレイクは、海軍の中将に任命されると同時に叙勲(サーの称号)を受けた。
そして1588年のアルマダの海戦ではイギリス艦隊副司令官に叙任され、イングランド艦隊の実質的な指揮をとることになる。
アルマダの海戦では、オランダ独立戦争でイングランドがオランダを支持し、以前から海賊行為でスペイン船が被害を受けていたことに対してスペインが無敵艦隊といわれていたアルマダを派遣してイングランドを制圧しようとして始まった争いである。
圧倒的に海軍力が強いスペインと、海賊船の寄せ集めであったイングランドの戦いはスペインの勝利は間違いないと思われていた。
海戦では互角の戦いを繰り広げ、アルマダが嵐に遭遇したくさんの犠牲を出しイングランドに敗れた。
スペインの全盛期の艦隊を破り、その後のイングランドの海洋帝国としての発展の始まりをドレイクは支えていたのである。
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