イギリスの女王といえば、現女王であるエリザベス2世や、大英帝国最盛期の女王ヴィクトリアを思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
しかしイギリスの歴史には華々しい活躍によって名を残した女王ばかりではなく、謀略によって望まぬ地位に就き、悲劇的な最期を遂げた女王もまた、存在する。
9日女王と呼ばれるジェーン・グレイがその人だ。この記事では、動乱に巻きこまれた彼女の短い人生を紹介する。
王家の血を引く才女
ジェーン・グレイは1537年にサフォーク公ヘンリー・グレイとフランセス・ブランドンの間に産まれた。
ジェーン・グレイの母方の祖母(母の母)メアリー・テューダーは、イングランド国王ヘンリー8世の妹にあたる。
ヘンリー8世とメアリー・テューダーの父は、イングランド国王ヘンリー7世である。つまりジェーン・グレイはイングランド国王の曾孫であり、彼女はイングランド王家の血を引いていたのだった。
ジェーン・グレイはプロテスタントを信仰しており、少女でありながら「イングランドで最も学識のある女性の1人」に数えられるほどの見識と教養を持つ人物であった。
イングランド王家の王位継承
ヘンリー8世の死後、イングランド国王として即位したのは、3番目の王妃ジェーン・シーモアとの息子エドワード6世である。彼には子がいなかったが、メアリーとエリザベスという2人の異母姉がいた。
メアリーはヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘である。だが生涯に渡って離婚と結婚を繰り返し、カトリックとの離別のためにイングランド国教会をも設立させたヘンリー8世は、キャサリンとの結婚が無効であったと主張する。これによってメアリーは庶子と扱われ、王女の地位と王位継承権を失った。
キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無かったことにしたヘンリー8世は、アン・ブーリンを新たな王妃に迎え、2人の間には娘のエリザベスが誕生した。だが、ヘンリー8世はアン・ブーリンの侍女ジェーン・シーモアと関係を持ち、邪魔になった王妃に罪を着せ、処刑してしまう。
キャサリン・オブ・アラゴンのケースと同様、アン・ブーリンとヘンリー8世の結婚も無効とされた結果、エリザベスも異母姉メアリーと同様に庶子として扱われることとなった。
ヘンリー8世は1543年に法改正を行い、メアリーとエリザベスの王位継承権を復活させたが、王女の地位に戻されることはなかった。
ジョン・ダドリーの野望
ジェーン・シーモアは出産後間もなく命を落としたが、彼女の兄であるエドワード・シーモアは甥であるエドワード6世の摂政兼護国卿として政治の実権を握った。
初代サマセット公の地位を得た彼を追い落としたのが、ジョン・ダドリーである。
エドワード6世より初代ノーザンバランド公に叙せられたジョン・ダドリーは、息子のギルフォードをジェーン・グレイと結婚させた上に、彼女を後継者にするようエドワード6世に求めた。ギルフォードとジェーン・グレイの間にできた子に、イングランド王位を継がせることが目的であった。
エドワード6世は熱心なプロテスタントであり、ジョン・ダドリーも王の意を受けてプロテスタント寄りの政策を取っていたが、メアリーは熱心なカトリックであった。
このような宗教的事情もあり、エドワード6世はジョン・ダドリーの説得を受け入れて、ジェーン・グレイを次のイングランド王にするという遺言を残す。
1553年7月6日に、エドワード6世は死亡した。
9日だけの王位
ジェーン・グレイが、義父であるジョン・ダドリーからエドワード6世の死と、彼の後継者に指名されたことを知らされたのは、1553年7月9日のことであった。
翌日には世間にエドワード6世の死とジェーン・グレイの即位が公表され、彼女は戴冠式のためにロンドン塔に移動した。
ジョン・ダドリーの失敗は、ヘンリー8世がエドワード6世の次の王位継承者に定めていたメアリーの逃亡を許したことであった。密かにロンドンを脱出していたメアリーは、1553年7月13日にイングランド東部のノリッジで即位を宣言し、支持者を集めた。
またジョン・ダドリーは、自身の計画を4人の息子とジェーン・グレイの父であるヘンリー・グレイにしか明かしていなかった。そのためにイングランドの有力貴族の支持を得られなかったばかりか、プロテスタントの信者さえもが、カトリックであるメアリーを支持した。ジョン・ダドリーがメアリー軍の鎮圧のために差し向けた兵隊さえもがメアリー派に回るという有り様であった。
ロンドン塔幽閉と処刑
貴族や民衆の支持を受けたメアリーは、1553年7月19日に、イングランドのサフォークで即位を宣言し、イングランド女王メアリー1世となる。
ジェーン・グレイは夫のギルフォードとともに逮捕され、たった9日で女王の地位を追われることとなった。彼女の身柄はロンドン塔で拘束された。
メアリー軍に投降したジョン・ダドリーは、1553年8月22日に処刑された。メアリーは従姉フランセス・ブランドンと親しい関係にあったため、彼女の夫や娘の処刑には乗り気ではなかった。
しかしジェーン・グレイの父ヘンリー・グレイは釈放された後に、メアリーとスペイン王子フェリペ(後のスペイン国王フェリペ2世。彼もメアリーと同じくカトリックの信徒)の結婚に反対するワイアットの乱に加担したために逮捕され、後に処刑された。
ロンドン塔に幽閉されていたジェーン・グレイと夫のギルフォードはワイアットの乱には無関係であったものの、周囲の説得を受けたメアリーの命により、1554年2月12日に処刑された。
2017年に日本で開催された「怖い絵」展では、ジェーン・グレイの処刑直前の様子を描いたポール・ドラローシュの絵画「レディ・ジェーン・グレイの処刑」が公開されたが、絵に描かれているものとは違い、ジェーン・グレイと夫のギルフォードの処刑は屋外で行われた。
現在、ロンドン塔の処刑場跡にはモニュメントが設置されている。
関連記事:
スコットランド女王メアリー・ステュアートについて調べてみた
キャサリン・パー ~義理の娘に夫を寝取られたイングランド王妃
この記事へのコメントはありません。