15世紀にアメリカ大陸を発見し冒険家として知られるクリストファー・コロンブスは、ヨーロッパに航海技術と交易の発展の影響を大きく与え、アメリカとの文化交流や経済的なつながりをもたらした。
しかし、コロンブスの航海は、アメリカ大陸の植民地化や先住民の略奪に奴隷化、大量虐殺など、暗い歴史ももたらすことになったのである。
目次
コロンブスの強欲がもたらしたアメリカ大陸発見
青年期から金と権力、地位と名声に目がくらんでいたコロンブスは「黄金の国・ジパング」を目指して大西洋を西回りで航海した。
コロンブスはアメリカ大陸の存在を知らず、「大西洋を横断すればアジア、つまりインドや日本、中国に到達できる」と考えていた。
1492年10月12日、コロンブス一行は72日間の過酷な航海を経て、現在のバハマ諸島にある小さな島「グアナハニ島」に上陸。
先住民がいたことも知らず、島に「サン・サルバドル島」、聖なる救済者という意味の名前をつけ、彼はそこをインドの一部と誤解する。
さらにグアナハニ島の先住民アラワク族たちを「インディオ」と呼んだ。
最初から新大陸の植民地化、先住民の奴隷化をもくろむ
アラワク族たちは突然現れたコロンブス一行を歓迎し、航海で疲れた船員たちに水や食糧を振る舞っただけでなく、オウムや綿の玉などを贈った。
コロンブスはアラワク族に赤いボンネット帽やガラス玉、鷹の鈴など、ほとんど値打ちのない物を贈るも、彼らは喜びを示しコロンブス一行をさらにもてなすようになった。
アラワク族は鉄製の武器の存在を知らず、コロンブスたちが剣を見せると刃を手に持ってしまい、怪我をしてしまうほど純朴であった。
彼らの性質や原始的な生活ぶりを観察したコロンブスは、アラワク族たちがよい奴隷、よいキリスト教徒になると確信し、略奪と布教を働くようになる。
黄金の発見が第一目的であったコロンブスは、航海と探検を再開。
現在のキューバ島に上陸し、その地を「フアナ島」と名付け、続いて現在のドミニカ共和国とハイチを発見、「イスパニョーラ島」と名付ける。
しかし、探検の途中でコロンブスたちが乗船してきたサンタ・マリア号が座礁。
修復不能となったためイスパニョーラ島の要塞に改造し、スペインの拠点とした。
アメリカ初の入植地誕生の瞬間であり、スペインによるアメリカ植民地化の始まりを告げる出来事であった。
コロンブスは要塞に39名の男性たちを残して現地支配を託し、1493年3月スペインに帰港した。
船には、現地の物産と6人の先住民アラワク族たちが乗せられていた。
自らの栄光に一筋の闇を落としたコロンブス
帰国したコロンブスを出迎えたのは、スペイン王室による盛大な賛美式典とサンタ・フェ契約で取り交わした報酬と権利だった。
コロンブスの成功と名声は留まるところを知らず、さらに、ローマ法王アレクサンデル6世が特別な勅書を発行した。
コロンブスによる「インディアス諸島」の発見を祝福し、現在のケープ・ヴァージン諸島からカリブ海のドミニカ共和国と、ハイチの一部までの領土をスペインのものとした。
コロンブスには「インディアス総督」の地位を与え、新たな領土の開拓とキリスト教の布教を許可する。
しかし、「陸地を最初に発見した者に与えられる恩賞」は本来、水夫に与えられるはずたったが、コロンブスは自分が最初に発見したと主張し、横取りしてしまったのである。
コロンブス指揮のもと行われた先住民大虐殺
半年後の1493年9月、スペインのイザベル女王とスペイン王室の援助を受け、17隻1500人という大所帯となったコロンブスの第2次航海は、植民を目的として踏み出した。
そのため1500人の乗員の中には、農夫や坑夫を含んでいた。
11月にイスパニョーラ島(現在のドミニカ共和国とハイチ)に到着するが、拠点として残してきた要塞はなんと先住民によって破壊され、残してきた39人の乗組員は全員殺されていたのである。
乗組員たちが現地での生活に不満を持ち、アラワク族だけでなくさまざまな先住民部族たちの領土や資源、人材を略奪し、彼らを奴隷化、強制労働やレイプなど、非人道的な扱いをしたことで怒りを買い、反逆を受けたのだった。
コロンブスは、現在のドミニカ共和国、モンテ・クリスティ湾近くに植民地を再建、スペイン女王に敬意を表して「イサベラ」と命名し、前回同様、要塞として湾の入口を見下ろす場所に建設した。
そして、コロンブス指揮のもと、先住民たちに対して窃盗、虐待、拷問、レイプ、無差別殺戮、放火が行われ、村は焼き尽くされた。
彼らが反逆したことへの報復だけでなく、黄金の在処を白状させようとしたためである。
コロンブスを満足させるだけの金を届けた先住民には、「スペイン人への敬意」の証として、首かけの標章が贈られた。
一方、金の量が足りなかった者は、男女関係なく手首を斬り落とされた。
だが、コロンブス一行の思惑よりも現地の金は少なかった。怯えた先住民たちは心身や生活や家族を犠牲にして金を採掘し続けたのである。
同時に飢饉が襲い、コロンブス一行が船によって運び込んでしまった疫病も蔓延し始めた。疫病はコロンブス一行はもちろん、痩せ細った先住民たちの肉体も襲った。
コロンブスはさらに黄金を求めてカリブ海諸島を探検しながら、1495年3月、装甲兵と騎兵隊、軍用犬で組織した軍団で数千人の先住民への略奪や虐殺を行った。
そのやり方は後に「コンキスタドール(征服者)」と呼ばれ、後のスペイン軍による虐殺のモデルとなる。
コロンブスは黄金に代わる富として、反乱を起こした先住民たちを奴隷としてスペインに輸送した。
ところが、イサベル女王はこれに怒り心頭となった。彼らを送り返し、コロンブスの現地統治にも疑問を持ち調査委員を派遣したのである。
イサベル女王の逆鱗に触れ恐れたコロンブスは、スペインに戻って釈明した。どうにか罪を免れたが、この頃からコロンブスとスペイン王室の関係に暗雲が立ち込めるようになる。
同じ時期、コロンブスの弟・バルトロメオがインディアス島を訪れ、コロンブスは弟を副総督に任命した。
バルトロメオは、植民地の行政整備や、先住民の管理と労働力の組織化、要塞や防御施設の建設などを行い、スペインの植民地帝国の一部としての地位を確立した。
黄金の金脈を発見できなかったコロンブスは失意の中、弟のバルトロメオを残して1496年3月、2隻の船と225人の人員、先住民30人とともにスペインに帰国した。
コロンブス逮捕、監禁されて強制送還
2年後の1498年5月、6隻の船団で3度目の航海に臨んだコロンブスは、南寄りの航路をとり、現在のベネズエラ・オリノコ川河口に上陸した。
そこは南アメリカ大陸であった。
コロンブスは河口の水が真水だったことから、その川は大河であり、その地が大陸であることを認識した。
新たな大陸が存在するとは想像もしていなかったコロンブスは、その後もその地はアジアだと主張し続けた。
弟のバルトロメオが副総督を務める植民地にコロンブスたちが到着すると、無惨に荒廃していた。
バルトロメオの統治力の低さから、現地はスペイン入植者たちにとって劣悪な環境となり、食糧不足にも陥っていたのだ。
コロンブスは体制を立て直そうと努力したが、入植者たちの反乱や先住民たちへの残虐な行いは収まらず、その事実がスペイン王室や市民に知れ渡ることになる。
コロンブスと弟バルトロメオは再びスペインから派遣された調査委員によって逮捕され、鎖に繋がれて監禁、1500年8月にはスペインに送還されてしまう。
コロンブスは必死の釈明で投獄を免れることはできたものの、総督としての地位をはじめ、すべての社会的地位が剥奪され、王室の信用を失ってしまったのである。
痛風で孤独死、500年後に大悪人として認識される
2年後の1502年、地位と名誉、功績を失ったコロンブスは、それでも黄金への未練を断ち切れず、4度目の航海を企画する。
しかし、王室から援助されたのは古びた4隻の船のみであったうえ、イスパニョーラ島への入港を禁止されていたため、コロンブスは半年間、140人の船員とともに現在の中央アメリカ、パナマ諸島をさまよった末に難破してしまった。
その後、運よく救助され、2年後にスペインに帰国したのだった。
さらに同時期、スペイン王室イザベル女王が亡くなったことで、コロンブスに対するスペイン王室の冷遇はさらに悪化することになった。
持病の痛風が悪化したコロンブスは、1506年5月20日、誰にも看取られることなく孤独のうちに54歳で息を引き取ったとされている。
新大陸発見という偉業を成したことで讃えられたコロンブスだったが、20世紀後半からは多くの先住民たちを奴隷として扱い無差別殺戮の悪行も世界的に知られるようになり、彼への評価は現在、複雑なものとなっている。
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