表と裏の顔
ラ・ヴォワザン(カトリーヌ・モンヴォワザン)は、パリのある宝石商の妻であったが、若い頃から手相や人相の見方を習っていた。
彼女の占星術の知識は専門家に勝るとも劣らぬレベルで、人の心理を見抜くことにも長けていたため、占いをしながら人々の相談にのっていた。
彼女は自身の豪邸に上流社会の人々を招いて度々夜会などを行っていた。しかし、これは表向きの顔であり、裏では毒薬の実験、媚薬や堕胎剤の製造などを行っていた。
黒ミサに使うための道具や、人間を焼いた形跡のある炉も持っていたという。
毒薬事件
1673年、パリのある懺悔聴問僧は、信者の告白した事実に恐怖をおぼえ警察に連絡をした。
聴問僧は、告解の秘密厳守の義務のため個人名は一切出さないようにしたが「しばらく前から、誰かを毒殺して自責の念に耐えれないという懺悔が激増している」と、警察に訴えたのだった。
17世紀、ルイ14世の時代はフランス史の中でも輝かしい時代であった反面、毒殺と黒ミサの暗黒の時代でもあった。
警察が厳重な捜査を行った結果、占い師と看板を掲げながら裏では毒薬の販売や堕胎を生業とする店が、パリ中に広がっていたことが明らかとなった。職業的な毒殺魔や裏で毒薬の取引きをしていた女占い師、その客などが逮捕されていった。
そして毒薬を扱っていた人々には、共通してある人物が関係していることが分かった。それがラ・ヴォワザンだったのだ。
ルイ14世は毒薬事件を懸念し、特別委員会を組織して調査と裁判の任に当たらせた。その究極は「火刑法廷」という裁判で、ここで犯人と断定された者は即刻火刑に処された。
委員会が手がけた件数は400件以上にのぼったという。
毒薬と黒ミサ
1679年、ラ・ヴォワザンとその関係者は逮捕され、ラ・ヴォワザンは苛酷な取り調べを受けた。そして、彼女が毒薬を売っていたことや黒ミサを行っていたことが判明した。
彼女はこれらにより莫大な資産を手に入れていた。
ラ・ヴォワザンのもとには愛されたいと願う人々や、金と名誉を手に入れたい野心家など様々な人々が訪ねてきていたのである。しかも上流社会の有名な人々が主な顧客であった。
ラ・ヴォワザンが与えた媚薬は目的の人物を誘惑するために用いられ、毒薬は邪魔者の命を狙うために使用された。しかし、これらで目的が果たせなかった場合は、ラ・ヴォワザンは司祭ギブールの黒ミサを受けるように勧めたのだった。
黒ミサは教会のミサとは正反対であり、赤ん坊を殺して悪魔に生贄として捧げるものであった。当時は、このような儀式をあげる司祭がパリには何人もいたという。
黒ミサは大抵、全裸で横たわる女性の腹部を祭壇にして行われた。そこに聖体を乗せ、司祭が悪魔に捧げる言葉を唱え、やがてミサが最高潮に達すると、生きた赤ん坊の喉を切って血を絞りとって女性の身体に注ぐ。そして女性はその血を全身に浴びながら願い事を唱えるのだった。
ラ・ヴォワザンは、親が貧しいために売られた赤ん坊などを手に入れていた。また堕胎業もしていたため、彼女の手によって2500人もの赤ん坊が犠牲になったという。その遺体は炉で焼かれたり、庭に埋められたりした。
彼女の娘でさえ、出産が間近になるまで母親に何も打ち明けず、いよいよ出産の予定日が近づくと黙って姿をくらました。そして無事に子供を生み落としてから家に戻ったほどであった。
そして1680年2月、闇の世界の黒幕ともいえるラ・ヴォワザンは、火炙りの刑に処された。
公衆の面前での罪の告白と神や王への謝罪を命じられたが、これを断固として断った。
彼女は処刑台に鎖で繋がれ藁を被せられ火をつけられると、大声で呪いの言葉を発しながら藁をはねのけるという、堂々たる悪女ぶりであったという。
モンテスパン夫人
ラ・ヴォワザンは激しい拷問にかけられながらも、最後まである人物の名前だけは口にしないで死んだという。
それを明らかにしたのは、彼女の娘であった。娘は「モンテスパン夫人が母親の顧客だった」と話したのである。調べた結果、モンテスパン夫人とラ・ヴォワザンの交流は、1665年以来からであることが分かった。
モンテスパン夫人は、ルイ14世の寵姫になることを望み、媚薬を手に入れ使用したという。彼女はそれまでの国王の寵姫であったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを追い落とし、その後の座についた。
モンテスパン夫人は媚薬だけでなく、国王の寵愛を一身に受けたいために黒ミサも受けたという。司祭ギブールもモンテスパン夫人に黒ミサを行ったことを明らかにした。
モンテスパン夫人は10年ほどの間、宮廷で絶対権力をふるっていた。しかしその後、国王はフォンタンジュ嬢という若くて美しい娘を寵愛するようになった。そこでモンテスパン夫人は再度ラ・ヴォワザンに相談を持ちかけて黒ミサを受けたのだが、願いは叶えられなかった。さらに毒薬を使って国王達の命を奪おうともしたが成功しなかった。
ルイ14世はこれらが発覚したことで「このままでは大変なスキャンダルになり王朝が倒れてしまう」と考え、捜査を中止させたのだった。
さらに事件の記録が残らないように取り調べ調書などあらゆる証拠書類を処分させた。その後モンテスパン夫人は完全に国王の寵愛を失った。
かろうじて宮廷に住むことは許されたが、彼女はしばらくして宮廷を去った。そしてパリの一修道院で余生を過ごし、1707年に67歳の生涯を終えたのである。
参考文献 フランス女性の歴史1 ルイ14世治下の女たち (大修館書店)
この記事へのコメントはありません。