クリスマスは2つある
「12月25日」と言えば、多くの人々にとっては「クリスマスの日」として知られています。
キリストの生誕を祝う特別な日になり、日本のようにキリスト教徒が多くいない場所でも、クリスマスは盛大に祝われることが一般的です。
意外と知られていないのですが、クリスマスは「12月25日」と「1月7日」の2つが存在します。
この違いは使用されるカレンダー(暦)によるものです。
私たちが日常で使用している「西暦」すなわち「グレゴリウス暦」では、クリスマスは12月25日に祝われます。
その一方、正教会などが使用する「ユリウス暦」に従うと、1月7日がクリスマスになります。
キリスト教の誕生と初期の苦難
キリスト教の起源に目を向けると、西暦の初め頃、ローマ帝国領のパレスチナでキリスト教が始まったとされています。しかしその誕生から約300年間、キリスト教は「異教」と見なされ、弾圧の対象となっていました。
皇帝ネロの時代には「ローマ大火」の原因を、キリスト教徒になすりつけるなどの迫害が行われました。
しかし時代は流れて西暦313年の「ミラノ勅令」によって、キリスト教は「公認宗教」となります。さらに西暦392年には、キリスト教はローマ帝国の「国教」として正式に認められることとなりました。
ローマ帝国の変遷とキリスト教の成長
この時期のローマ帝国は、複数の蛮族や異民族からの侵攻に悩まされていました。中でもゲルマン民族の侵攻は顕著で、ローマ帝国はとても厳しい国家運営を強いられたのです。
ローマ帝国の広大な領土を考慮すると、見張りや防御には大変なエネルギーを要求されました。
こうした外部からの圧力を受けて、西暦395年にローマ帝国は東西に分割されることになります。「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」として、それぞれ独自の統治が始まったのです。
広大な領土を効果的に守るための策として、兄弟による分割統治を試みました。
この東西分割のあとも、ローマ市は異民族による度重なる脅威にさらされます。
そのなかでも452年、フン族のアッティラ王が北イタリアに侵入する事件が発生しました。しかしローマ教皇・レオ1世が武器を持たずにアッティラ王を説得し、ローマの都市破壊を防ぐことに成功します。
この功績により、ローマ=カトリック教会の権威は一層高まったのです。
布教活動の展開と方法
ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後も存続し、異民族への布教活動を積極的に続けていきます。
しかし、異民族であるゲルマン民族などに対する布教では難しさを感じていました。
「神」や「聖霊」といった抽象的な概念を上手く伝えられなかったからです。
解決策としてローマ教会は、布教活動で多様な舞台装置や偶像を使用するようにしました。
聖母マリアの像などの偶像や聖像を使用した布教は、異文化や他言語の土地でもキリスト教のメッセージを効果的に伝える手段として成功します。
その一方、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルでは「東方正教会」が根付いていました。
正教会はスラブ人を中心に布教活動を展開しており、その活動は東ローマ帝国の強い庇護のもとで行われました。
ただローマ教会と同じように、布教の過程で抽象的な概念の伝達に困ったため、正教会は「イコン」と呼ばれる聖人の絵を利用するようになります。
このイコンはカトリック教会の聖像と同じように、正教会の信仰を大きく助ける役割を果たしました。
東西教会の分裂
しかし時間が経つにつれて、東西の教会は教義などの違いから次第に対立を深めます。
「どちらがキリスト教の教会として正統なのか」という「首位権争い」が大きな対立に繋がったためです。最終的には東西教会の相互破門による、分裂(1054年)を引き起こします。
また追い討ちをかけたのが、イスラム勢力の急速な拡大です。キリスト教の伝統的な「五本山」の中心地のうち3つがイスラム勢力に占領されました。
そのため五本山は、最終的に2つだけが残されることになります。「東方のコンスタンティノープルの正教会」と「西方のローマ=カトリック教会」です。
こうした背景が重なり、両教会による首位権の争いはさらに激化し、教義に関する対立も深まっていったのです。
この東西教会の分裂は約900年にわたって続くことになり、その間にも多くの出来事が起こりました。
そのなかでも注目すべきは、第4回十字軍の出来事です。
ローマ教皇・インノケンティウス3世の指示により、本来の目的から外れて十字軍は東ローマ帝国を攻撃することになりました。この出来事によって東西教会の間に生じた亀裂はさらに拡大し、分裂が決定的なものとなりました。
1453年、長い歴史を持つ東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされます。
このあと東方正教会は新しい中心地を求め、モスクワ大公国に保護を求めました。モスクワ大公国は「ローマの後継者」であると自称し、のちにロシア帝国の基礎となります。
そしてモスクワは「第3のローマ」であると主張しているのです。
参考文献:ゆげ塾、ゆげひろのぶ、川本杏奈、野村岳司(2023) 『ゆげ塾のヨーロッパがわかる世界史・上巻』ゆげ塾出版
参考になりました!
こういう記事もっとあったらいいと思います!頑張ってください!応援してます!